鳥居忠意
鳥居 忠意(とりい ただおき)は、江戸時代中期から後期の大名。下野壬生藩の第3代藩主。壬生藩鳥居家7代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保2年(1717年) |
死没 | 寛政6年7月18日(1794年8月13日) |
改名 | 熊千代(幼名)→忠意 |
別名 | 忠胤、忠孝 |
戒名 | 寿徳院殿義岳秀天大居士 |
墓所 | 東京都文京区本駒込の江岸寺→多磨霊園に改葬 |
官位 | 従五位下、従四位下、伊賀守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府若年寄・奏者番・寺社奉行 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治→家斉 |
藩 | 下野壬生藩主 |
氏族 | 鳥居氏 |
父母 | 父:鳥居忠瞭、母:小西氏 |
兄弟 | 忠意、大久保忠翰、忠亮 |
妻 |
正室:亀井茲親の養女(亀井茲長の娘) 側室:中山氏、麻衛氏、伊東氏、川久保氏など |
子 |
13男7女:忠求、坪内定系、忠計、忠見、竹中元恭(五男)、忠温(七男)、戸川安昶、忠寄、忠良(十一男)、娘(高木正弼正室)、娘(花房職雍正室)、娘(花房正域養女、花房正応正室)、虎子(織田秀綿正室のち土屋業直継室) 養子:忠貴、忠燾 |
生涯
編集享保2年(1717年)、下野壬生藩第2代藩主・鳥居忠瞭の長男として生まれた。
享保18年(1733年)7月28日に江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、享保19年(1734年)12月18日に叙任された。享保20年(1735年)に父が死去したため家督を継いだ。
見目がよかったため将軍・徳川吉宗に抜擢され、日光東照宮への将軍の名代としての代参役を勤めた。その際に将軍家の葵紋入りの羽織を与えられており、この後も日光代参役を何度も勤めた。延享4年(1747年)5月15日に奏者番となり、宝暦2年(1752年)4月23日には寺社奉行を兼務した。宝暦10年(1760年)3月22日には若年寄となったが、翌年に第9代将軍・徳川家重が死去すると全ての職を辞職した。
再度の出仕
編集ところが、宝暦12年(1762年)5月24日に再び奏者番、寺社奉行、若年寄を兼務することになり、天明元年(1781年)閏5月11日には西の丸老中となり同年9月18日に従四位下を叙任された。天明6年(1786年)に徳川家斉が新将軍となると、本丸老中に任じられた。
寛政3年(1791年)10月11日に眼疾に倒れて、寛政5年(1793年)に高齢のため老中職を辞した。
晩年
編集この間、世子の長男の忠求が寛政元年(1789年)に早世。忠求の長男の忠貴を世継ぎと定めたが、寛政3年(1791年)に廃嫡した。次に世子とされた四男の忠見も寛政6年(1794年)5月12日に父に先立って死去した。
家族
編集正室に寂死されたことをきっかけに、側室を多数抱えたが、側室同士が諍いの末に傷害致死事件を起こした。
系譜
編集父母
- 鳥居忠瞭(父)
- 小西氏 ー 側室(母)
正室
側室
- 中山氏
- 麻衛氏
- 伊東氏
- 川久保氏
子女 13男7女とされる。
- 鳥居忠求(長男)
- 坪内定系 - 大身旗本5千5百石坪内定孝の婿養子。
- 鳥居忠計 - 竹中元恭、虎子らは同母(麻衛氏)
- 鳥居忠見(四男)- 戸川安昶、鳥居忠寄、鳥居忠良、花房正応正室は同母(伊東氏)
- 竹中元恭(五男)- 大身旗本5千石竹中氏の婿養子。(竹中重寛項目参照)
- 鳥居忠温(七男)- 花房職雍正室、高木正弼正室は同母(川久保氏)
- 戸川安昶(十男)- 大身旗本3千4百石戸川氏(早島戸川家)の養子
- 鳥居忠寄
- 鳥居忠良(十一男)
- 高木正弼正室 - 河内国丹南藩主
- 花房職雍正室 - 大身旗本7千石。花房職秀子孫
- 花房正域の養女(花房正応正室) - 大身旗本5千石。花房正成子孫。正応は豊後国佐伯藩主毛利高丘の三男。
- 虎子 ー 大和国柳本藩主織田秀綿正室のち土屋業直継室
- ※ 花房両家、戸川氏は備前宇喜多氏の旧臣の家系。
養子