香櫨園
香櫨園(こうろえん)は、兵庫県西宮市の地名である。香枦園(読みは同一)とも書く。
〖西宮七園〗 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 兵庫県 |
市町村 | 西宮市 |
隣接自治体 |
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旧自治体 | 武庫郡大社村 |
開発期間 | 1907年 |
概要
編集名称は1907年(明治40年)に大阪船場の砂糖商・香野蔵治と櫨山喜一[注釈 1]が夙川西岸の羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町周辺地域(現在の阪急神戸本線夙川駅北西部)に両者の名前を1文字ずつ取り名付けて開設した香櫨園遊園地に由来する[2]。当時関西最大だったこの遊園地は、開園後2年で外国人経営の土地会社サミエル商会の手に渡り、1913年(大正2年)に廃園。一部の施設は河口へ移った。
1920年(大正9年)の阪神急行電鉄開通前後に「浜香櫨園住宅地(37,000坪)」「夙川香櫨園住宅地(1918年、150,000坪)[注釈 2]」が建設され高級住宅地となった[4]。阪神電気鉄道が遊園地経営に関与していたために、阪神香枦園駅(現・香櫨園駅)は移転後の遊園地の付近にある。そのため、阪急は住宅分譲に「香櫨園」の名を使うことはできなかったため、阪急沿線では住宅名に「夙川」と付けている。
1937年(昭和12年)5月、西宮都市計画区域(西宮市、芦屋市区域)の六甲山系、武庫川、夙川、芦屋川、香櫨園浜、芦屋浜で風致地区が指定され、香櫨園を含む夙川沿いの地域では、緑豊かな都市環境が維持され、六甲山系、夙川、芦屋川、海浜を結ぶ公園緑地系統(パークシステム)、緑のネットワークが都市計画として位置付けられた[5]。
夙川河川敷緑地(夙川公園)、片鉾池などの公園緑地をはじめ、海岸はかつて香櫨園海水浴場として親しまれた御前浜公園(香櫨園浜)。東には西宮砲台(国の史跡)、西宮マリーナが立地する。他には、夙川公⺠館(松下記念ホール)[注釈 3]、西宮市教育文化センター、西宮市立中央図書館[注釈 4]、西宮市大谷記念美術館、辰馬考古資料館、菊池貝類館などの公共施設、博物館、美術館が立地している。
阪神間モダニズム期に建てられた主な施設
編集- 香櫨園遊園地(遊園地、庭園、ホテル、奏楽堂) - 1907年(明治40年)
- 香櫨園浜海水浴場 - 1907年(明治40年)
- 宣教師館(雲井町) - 設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ、1922年(大正11年)
- グリンネル邸(雲井町) - 設計:W.M.ヴォーリズ、1924年(大正13年)
- 宮崎弥七郎邸 - 設計:笹川慎一、1926年(大正15年)
- 旧ナショナルシティバンク社宅群(殿山町・雲井町) - 設計:W.M.ヴォーリズ、1929年(昭和4年)
- 大阪支店長住宅
- 大阪副支店長住宅
- 経理課住宅
- 単身者住宅
- 阿部市太郎邸 - 設計:W.M.ヴォーリズ、1929年(昭和4年)
- 安井武雄邸(雲井町) - 設計:安井武雄、1931年(昭和6年)
- ホテル・パインクレスト[注釈 5](殿山町) - 1931年(昭和6年)
- カトリック夙川教会(霞町) - 1932年(昭和7年)
- 前田邸(殿山町) - 設計:池田総一郎、1933年(昭和8年)
- 泉勤一邸 - 設計:大林組住宅部、1934年(昭和9年)
- 旧梅花女学院教員社宅(雲井町)
- 旧日本ゼネラル・モータース社宅(殿山町)
- 旧日本ウェスティングハウス・エレクトリック社宅
- 根津家別荘(相生町)
- 甲南荘(相生町)
- 西宮ダンスホール(神楽町)
地域
編集(※以下の地域区分は推定) 参照:[10][11][12][13]
備考:[注釈 7]
- 殿山町
- 高貴な身分やその屋敷を「殿」と呼び、その殿が多い小高い地(山)であることから。
- 雲井町
- 羽衣を着た天女が舞いながら上る雲井から。
- 相生町
- この地はかつて松が自生した荒地だったので、相生(ホテル「パインクレスト」も「松峯」の意)の名が選ばれた。
- 松園町
- 相生町と同様の理由から松園の名が選ばれた。
- 霞町
- 霞は雲井の縁語から。
- 羽衣町
- 松の枝に掛けられる天女の羽衣から。
旧越木岩新田
編集- 松ヶ丘町
- 1938年(昭和13年)に始まり1944年(昭和19年)に完成した久出ヶ谷土地区画整理事業に伴ない1943年(昭和18年)に設立した新町の一つで字樋之池から分立。東半の丘に松が自生しており町名の由来となった。
- 菊谷町
- 1943年(昭和18年)設立。越木岩の一部でその中心部は字菊ヶ谷であったため、現在名となった。しかし菊谷町の北部を除いた地域はその名と反対に小高い丘である。1963年(昭和38年)西宮市による区画事業により閑静な住宅地として発展し、1987年(昭和62年)には米国大阪総領事館員の合同宿舎も建てられたが一方で、苦楽園口駅周辺を中心にハイファッショナブルな若人の町の雰囲気も及びている。
- 久出ヶ谷町
- 1938年(昭和13年)設立の久出ヶ谷土地区画整理事業地(事業完成は1944年(昭和19年))の一角に旧字久出ヶ谷の他、菊ヶ谷・福井谷・樋之池南側の各一部が併さって1943年(昭和18年)に設立。以前は久出川沿いに田畑が広がり、初夏にはいちご狩りの人々で賑わったという。なお町内の夙川小学校はこれより以前、1924年(大正13年)阪急甲陽線が開通し翌年に苦楽園駅が設けられるに及び、周辺が住宅地として発展したのに対応して1936年(昭和11年)に開校した。
- 松生町
- 南越木岩町の南、旧西宮市越木岩字久出ヶ谷・樋之池・樋之池南側の森具の一部が1943年(昭和18年)に合併して設立した町で、町名としては付近に多く松が自生していたことに因んだ。今も松蔭続く夙川公園や屋敷の見越し松にその名残を窺わせる。
旧香櫨園鉱泉周辺
編集- 高塚町
- 1943年(昭和18年)設立。町名はかつて百基以上あったと考えられる八十塚古墳群の東高塚、中高塚、西高塚に因む。近世以降の新田開発や近代の宅地開発でその大部分が失われ、現在は古くから稲荷山と通称された丘陵の頂部に東高塚1基が残る。大正期の地図には高塚山の辺りに香櫨園鉱泉の名がみられる。住宅地として発展したのは1955年(昭和30年)代以降で近年はマンションなども増え、1985年(昭和60年)代に入ると町内総戸数も二百戸を超えた。
- 大谷町
- 旧字大谷。昭和初期まで木造の旧国鉄官舎群が建ち並んでいたが、1965年(昭和40年)代には鉄筋コンクリート中層住宅に建て替えられた。また、そのころから一般住宅も増加し始め、市内有数の人口密度の町となった。
- 深谷町
- 旧字深谷。1943年(昭和18年)に深谷町となったが1965年(昭和40年)に町域の一部を芦屋市へ分離し代わりに岩園町の一部を編入して現町域となる。
- 木津山町
- 1943年(昭和18年)設立。町域の北部は1937年(昭和12年)設立。1944年(昭和19年)完成の久出谷土地区画整理事業で住宅地化された。町内の神戸海星女学院マリア幼稚園は、1954年(昭和29年)夙川カトリック教会内に設立された後、1955年(昭和30年)現在地へ移転した。同園の敷地は大神土地株式会社社長旧宅である。
旧香櫨園遊園地周辺
編集- 郷免町
- 1938年(昭和13年)字郷免・東郷免のほか、下ノ池・山ノ下・宮ノ上・蓮(レン)堀・屋敷の各一部が合併し設立。芦屋郷の直轄地で租税(免)を郷の諸経費に充てたため「郷免」の名がついたとされる。阪神国道(現・国道2号線)や阪急神戸線の開通により宅地化され国道沿いは商業地化された。
- 弓場町
- 町名は神事の場「弓場」から。1938年(昭和13年)に新町名として宇前田を中心に郷免・堀切・屋敷の各一部が合併し新町が出来た際この町名となった。
- 屋敷町
- 屋敷は集落を意味し、旧森具(守具)村の中心で家屋が集まっていた所が元の字屋敷で、1938年(昭和13年)に屋敷町となった。
- 御茶家所町
- 1938年(昭和13年)設立。もとは西宮市森具の一部。廣田神社の盛時、同社と戎神社の神輿が遠く神戸和田岬まで渡御する祭礼が平安時代末から始まり戦国時代末まで続いた。両社の神輿は当時、西国街道と中国街道が合流したこの地で合わさり、供奉の供ぞろえをしたという。ここで行装を整えつつ茶の一服でもしたのか、かつては町名の由来ともなった御茶家所と称する小社があったという。この神輿が和田岬に向かった途路には今も「茶屋」の地名が点々と残されている。1964年(昭和39年)大手前文化学院が新築され1966年(昭和41年)大手前女子大学が開校。
- 松下町
- 1938年(昭和13年)設立。森具集落の東部は字松ノ下と呼ばれていた。これは当時の夙川堤防が未整備で(夙川堤防が都市公園として本格的に整備されたのは1932年(昭和7年)以降)川堤は今以上に松林が広がり、その土手下に位置したための呼び名である。香櫨園遊園地廃園後、住宅地として発展した。町内に辰馬考古資料館がある。
- 神楽町
- 1927年(昭和2年)設立。1875年(明治8年)の地租改正の時、制定された字名の一つに神楽田があり現在の町名のもとになった。1933年(昭和8年)の川堤改修整備まで付近一帯は田んぼが広がり、夙川の両側も葭が茂っていた。神楽田には立木5、6本で囲まれた夙川伏流水の湧く井戸があり、1935年(昭和10年)頃まではその水が西宮神社にひかれていた。1926年(昭和元年)には町内を貫いて国道2号線が開通したが、当時は国道北側に5、6軒、南に10余軒の人家しかなく、広い国道は若い衆が自慢の自転車をのりまわす場で、夙川橋の所には牛馬用水呑場が設けられていた。
- 宮西町
- 戎神社の北西に位置した字宮西・古宿・市庭・川東の各一部が1926年(大正15年)に合併し設立。阪神電車の開通後、住宅地化され町内を南北に通る幹線市道の両側は商業地となっている。
- 市庭町
- 1875年(明治8年)字市庭となるが、字名と旧町名が併用された。1889年(明治22年)西宮町、1925年(大正14年)からは西宮市の町名となる。1926年(大正15年)・1927年(昭和2年)西宮市大字なしの地域の一部を編入。「
市 」の語源は「斎 く(神に仕える)」で市とは神聖な所を意味する。他の説では「市」は交通要地を指す「五十路 」や「集路 」を語源とするという。「摂津名所図会」には、イチバとよまれていることから近世前期までは「イチバ」と呼んだ。後にイチバは市場の文字に統一が進み、一方で近世以降に西宮の市 の中心が現在の本町方面に移ったため、市庭は(かつての市の中心だったことも忘れられ)「イチニワ」とよばれるようになった。
旧浜香櫨園住宅地および旧葭原・川添住宅地
編集備考:[注釈 8]
- 川西町
- 町名は「夙川の西の町」を意味し、1926年(大正15年)に大社村森具の一部(字御茶家所・松ノ下・当田・前田)と西宮町(当時、西宮は町制を敷いていた)の一部(字風前・黒敷・中浜・堀切川・溝尻)が合併し設立。
- 川東町
- 夙川の東にあり旧字名の川東を継いで1930年(昭和5年)に川東町となった。香櫨園駅開設と共に閑静な住宅地になったが、1963年(昭和38年)の国道43号線、続いて1970年(昭和45年)の阪神高速道路の開通により、町域北部の住宅環境は大きく変化した。建石筋に面する町域東部もまた商業地域に変じている。
- 川添町
- 西浜新家の一部だったが夙川に沿うところから1930年(昭和5年)に「川添町」と改称。香櫨園駅開設により住宅地化が進んだ。1985年(昭和60年)に西宮市教育文化センター(中央図書館・郷土資料館・市民ギャラリー)が開設され、町域は夙川流域に散在する美術館・博物館をつなぐ夙川文化ゾーンの一角を担っている。
- 中浜町
- 字宿前・黒敷・中浜・堀切川・溝尻が合併し1926年(大正15年)に設立。町名に採られた字中浜は以前に付近が海浜だったことに因むという。町内に西宮市大谷記念美術館がある。
- 堀切町
- 1926年(大正15年)に旧森具から西宮に編入された字堀切川・古新田を中心に、西宮に属した夙前の一部が合併し成立した町名である。堀切川は文字通り地を掘って切り通した川、つまり人工的な用水路を意味する普通名詞である。ここでは町域の西を流れ、ほぼ現在の西宮市と芦屋市との南端部の市境をなすそれほど広くもない水路である。
- 上葭原町
- 中葭原町
- 下葭原町
- 上葭原町・中葭原町・下葭原町はいずれも1926年(大正15年)に設立した。町名は付近の大部分が以前に
葭原 と呼ばれていたことに因む。その葭原の名の由来は、隣の芦屋市が平安時代の葦屋の名に因むように、かつてこのあたり一面が葦原であったからという。「葦 」が「悪 し」と同じ発音であるのを嫌い、逆に「よし」と呼んだ。江戸の葦原に造った遊里を「吉原」と呼んだのと同じ発想である。この葦が繁った湿地も夙川などの運ぶ土砂で近世には田畑になっていたらしく、1883年(明治16年)刊行の「西宮町誌」にも(当時葭原以南は西宮所属だった)「田圃 タリ」とある。その後、1920年(大正9年)から耕地整理の名で行われた都市計画で住宅地化が次第に進んだのは川西町・中浜町・堀切町と同様である。1940年(昭和15年)、13代辰馬吉左衛門が甲陽高等商業学校を設立し、1941年(昭和16年)辰馬家が中葭原町一帯に所有する4万余坪のうちから8千余坪を割いて敷地とし校舎を建てた。同校は1944年(昭和19年)に甲陽工業専門学校となり、1948年(昭和23年)廃校となった。旧校舎はその後、甲陽学院中学校の校舎としてある。 - 大浜町
- 1926年(大正15年)設立。現在はマンションや住宅が並ぶが、1955年(昭和30年)代頃までは文字通り白砂青松の海岸に回生病院と当時珍しいスカル(一人漕ぎ軽漕艇)やボートを貸す家があったのみである。大浜の「大」は「大きい」と共に「立派な」の意味をもつ美称である。町内に回生病院がある。
その他隣接地域
編集- 老松町
- 1943年(昭和18年)字ユルギ谷・古池・狸原・久出ヶ谷の各一部が合併し設立。当時は文字通り老松が群生していた丘陵地であった。1933年(昭和8年)の地図によると老松町を中心に丘陵が続き、その一つに「松茸山」と記されており、当時は松茸がこの地でふんだんに採れた。もとは西宮市越木岩の一部。町域は1963年(昭和38年)以後、区画整理が行われ住宅地として整備が進み、1970年(昭和45)~1975年(昭和50年)に市営住宅197戸が建設された。
- 樋之池町
- 1943年(昭和18年)設立。町名は樋之池の名に由来する。もとは西宮市越木岩の一部。1953年(昭和28年)市営住宅16戸を建設。1972年(昭和47年)北夙川市民プールが開設。
- 南越木岩町
- 1943年(昭和18年)設立。町名はかつての越木岩新田(のち大社村および西宮市の大字越木岩)に因む。苦楽園口駅に至近で、幅広い市道が町域のほぼ中央で交わるこの町の表通りは銀行やスーパーなどが建ち並ぶが、一歩幹線から中へ入ると閑静な住宅地の面影が残されている。
- 結善町
- もとは大社村越水・西宮市大字なしの地域の各一部。旧字ケチゼンに由来し町名は住宅地にふさわしい嘉字を充てた。大正9年に阪急神戸線が開通したのに伴い夙川駅周辺の区画整理が行われ、事業完了の1930年(昭和5年)ケチゼンの他、大井出・南郷・満池谷・越水字中山の各一部が結善町となった。また、夙川堤防改修と動力精米の普及で、長閉かな水車場風景に代わり、現在の閑静な住宅地が誕生した。1955年(昭和30年)夙北市場を開設。1938年(昭和13年)竣工の旧山本家住宅が建つ。
- 大井手町
- 1930年(昭和5年)設立。1920年(大正9年)阪神急行電鉄神戸線が開通し市街地化が始まる。町名は夙川の伏流水が湧く井手による。夙川沿いに「こほろぎ橋」、「大井手橋」が架かる。
- 寿町
- 1926年(大正15年)設立。もとは西宮市大字なしの地域の一部。町名は1924年(大正13年)の区画整理[注釈 9]前、路傍に地蔵や五輪塔が多くあったため仏教の「無量寿」から「寿」を採って名付けられた。夙川沿いに「羽衣橋」および「羽衣橋北歩道橋」が架かる。
- 千歳町
- 1926年(大正15年)設立。町名は町域の西の夙川堤に古来寿命の長さをめでられる松林があるうえ、北側に寿町が立地するのに合わせて名づけられた。1934年(昭和9年)芸術家や学生のサロンであった喫茶店『ルージュ・ラ・パボーニ』が開店した。
- 安井町
- 1926年(大正15年)設立。町名は旧字名による。近くに「大井手」の地名もあることから、夙川の伏流水の湧く地でもあったので「井」がついたと推定される。1926年(大正15年)西宮第三尋常小学校が設立される。夙川沿いに「片鉾橋」が架かる。
- 荒戎町
- 1930年(昭和5年)設立。町名は1872年(明治5年)頃まで置かれていた沖之荒恵美須神社にちなむ。
- 産所町
- 1926年(大正15年)設立。傀儡師発祥の地として知られる。1926年(大正15年)阪神国道(現・国道2号)が開通し沿線はオフィス街の一画となる。1950年(昭和25年)西宮阪神市場を開設。
- 社家町
- 町名の由来は戎社(西宮神社)の社司の家を中心にした地域であったことによると思われる。1889年(明治22年)戎社社地を中心に西宮町の町名となり、1925年(大正14年)からは西宮市の町名となる。
- 宮前町
- 1930年(昭和5年)設立。町名の由来は西宮神社の南正面に位置することによる。もとはほとんどが水田であったが、大正期に宅地化が急速に進んだ。1751年(宝暦元年)創業の阿波屋味噌製造場があったが、戦後に廃業。1955年(昭和30年)代には神戸や小野方面から酒造業者が参入した。
- 建石町
- 1930年(昭和5年)設立。辰馬本家酒造により1874年(明治7年)から大正期にかけて15の新田蔵が建設され、周囲に社宅が建ち、ついで内外綿株式会社紡績工場の社宅も建ち並んだ。こうした浜手の人口増加に対応して、1930年(昭和5年)に西宮第四尋常小学校が開校し、直後に建石小学校と改称された。
- 前浜町
- 1930年(昭和5年)設立。旧西宮町の西海岸に位置し、1930年(昭和5年)の町域・町名の大改正まで文字どおり地名も字西浜であった。また、浜の名が示すように、もとは夙川の堆積や海流でできた砂地だったが、長年の農民の努力で田畑になっていた。町名改正に際し、この地域が前浜と改称されたのは、単に「すぐ前が浜」だからではなく、西宮の歴史的地名「御前浜」に因んでつけられた[15]。大正期、泉町の内外綿株式会社工場に隣接する地域が住宅地となっていたほかは畑地であった。1929年(昭和4年)辰馬本家酒造会社により『白鹿館』が建設された。西部は住宅地として現在に至る。夙川沿いに「浜夙川橋」が架かる。
- 泉町
- 1930年(昭和5年)設立。1895年(明治28年)日本紡織が設立され大正期に躍進。その後、従業員住宅などで市街地化した。
- 西波止町
- 1930年(昭和5年)設立。1908年(明治41年)香櫨園海水浴場開設により御前ノ浜が海水浴場の一部となる。浜辺はかつてイワシの地引き網漁が盛んであったほか、西宮砲台の外郭が残る。
施設・名所・旧跡等
編集- 雲井橋通り
- 山手幹線
- 阪神国道(国道2号)
- 鳴尾御影線
- 国道43号
- 阪神高速3号神戸線
- 酒蔵通り
- 臨港線
- 阪急夙川駅
- JR西日本東海道本線さくら夙川駅
- 阪神香櫨園駅
- 大手前大学さくら夙川キャンパス
- 大手前アートセンター
- 甲陽学院中学校・高等学校
- 旧甲陽高等商業学校校舎
- 西宮回生病院
- 森具の宮須佐之男神社
- 阿弥陀寺
- カトリック夙川教会
- 西宮聖ペトロ教会
- 日本福音ルーテル西宮教会
- 日本基督教団香櫨園教会
- 西宮市教育文化センター
- 西宮市立郷土資料館
- 西宮市平和資料館
- 西宮市立市民ギャラリー
- 西宮市立中央図書館
- 夙川公民館
- 香櫨園市民センター
- 香枦園会館
- 辰馬考古資料館
- 西宮市大谷記念美術館
- 夙川河川敷緑地
- 夙川オアシスロード
- 大井手橋
- こほろぎ橋
- 羽衣橋北歩道橋
- 羽衣橋
- 片鉾橋
- 夙川橋
- 川添橋
- 新翠橋
- 翠橋
- 葭原橋
- 森具公園
- 御前浜公園
- 香櫨園浜
- 王子が丘古墳
- 慈悲塔
- 日切地蔵
- 夙川不動明王
- 菊池常三郎之碑
- 旧ホテル・パインクレストの石垣
ギャラリー
編集-
阪神香櫨園駅
-
阪急夙川駅
-
JRさくら夙川駅
-
カトリック夙川教会
-
西宮市大谷記念美術館、回遊式日本庭園
-
辰馬考古資料館
-
ナショナル・シティ銀行大阪支店長住宅
-
同副支店長住宅
-
同経理課住宅
-
同単身者住宅
-
大阪支店長住宅居間
-
大阪経理課住宅居間
-
安井武雄邸
-
ホテル・パインクレスト
関連項目
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 櫨山(はぜやま)喜一については、文献によっては『櫨山慶次郎』と記されているものもある。また、この櫨山慶次郎は香野とは兄弟だという説もある[1]
- ^ この住宅地は地形が起伏に富み、道路が回遊式に設けられており1区画あたりの坪数が大きく、各住宅は敷地の条件に合わせて多様な構成を見せ、緑の豊かな一点でも良好なイメージを与えていた。また、もう一つの特微として、外国人向けの住宅が多数建てられていた[3]
- ^ 寄贈者の松下幸之助は香櫨園の北東に位置する名次町に居を構えていた。1933年(昭和8年)、隣接する南郷町に「西宮南郷山住宅地」が完成し、この住宅地の北側の尾根伝いに名次町の分譲地が造成された。以降、当地域は南郷町と併せ「南郷山」と呼ばれ、阪神間でも高級住宅地の一つとして知られる。この住宅地は夙川の東、南北に長い尾根状の地形の上に載るかたちで形成されており、離れてこの地を見ると緑に覆われた丘陵地に大きな屋根をもつ邸宅が木立のなかに見え隠れする[6]。
- ^ 2030年度を目途に阪神西宮駅北側に移転予定
- ^ 小説家の野坂昭如は戦後、進駐軍により接収されていた当ホテルで下働きをしていた。
- ^ 1923年(大正12年)に森具区から香櫨園区が分立。1932年(昭和7年)に阪急電車の駅名と区名を一致させるため香櫨園区は夙川区に改称された[14]。しかし1933年(昭和8年)の西宮市全図では当地域を香櫨園と表記しており、香櫨園の名称はその後も住居表示などでしばらく用いられた。なお夙川地区は旧夙川区一帯をさす。
- ^ 大神土地株式会社住宅経営図には町名の代りに、南北の錦筋・
東雲 筋・桜筋・弥生筋、東西の香櫨通・蓬莱通・千種 通などすでに消えた名のほか、羽衣通・雲井通と今の町名につながる名が見える。1938年(昭和13年)に付けられた羽衣町・相生町・雲井町・霞町・殿山町・松園町の町名は、謡曲に因んで大神中央土地社長が名付けたとの説があり、同社の元重役柳瀬博夫氏によると「町名は重役会でめでたい名を選んだ。謡曲との関連は直接はない。しかし、重役の中に謡曲好きがいたかも知れない。」という。 - ^ 守具(森具)村集落の南は夙川と堀切川に挟まれた田畑が広がっていた。この地域のうち南半は西宮町字葭原で、北半はもともと森具に属していた字中浜・溝尻・古新田・外新田を1889年(明治22年)の町村制実施にあたり、御茶家所など西宮町の一部と交換した。1920年(大正9年)から始まり1923年(大正12年)に完成した西宮町耕地整理組合事業で住宅地化が進み閑静な邸宅が立ち並んだが、現在ではマンションや社宅に変わった邸宅も多い。
- ^ 1921年(大正10年)西宮第二耕地整理組合(まだ都市計画に対応する法律がなく、耕地整理の名目で実際は都市計画を目的)が設立され、その後の区画整理事業により、夙川、国鉄東海道線、阪急神戸線、札場筋に囲まれる地域が現在の碁盤目状の整然たる区画となり、それまでの田園風景にかわって一帯は文化住宅街となった。1923年(大正12年)こうしてできた各町(平松町・安井町・千歳町・常磐町・分銅町・末広町・寿町)には、めでたい佳名が選ばれた。
- ^ 中央奥の尖塔の建物は奏楽堂で、香櫨園廃園後の1924年に移設されたもの。
出典
編集- ^ “華やかなりし香櫨園(月刊神戸っ子2017年10月号)”. 神戸っ子出版 (2017年10月1日). 2019年12月9日閲覧。
- ^ 橋爪紳也「沿線開発とアミューズメント施設」、「阪神間モダニズム」展実行委員会編著『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化、明治末期―昭和15年の軌跡』所収。淡交社、1997年、222頁
- ^ 坂本勝比古. “住宅総合研究財団 研究年報 No.21、1994年『阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究(2)-近代日本の大都市郊外住宅地形成過程-』”. 2022年9月13日閲覧。
- ^ 1938年2月刊「日本地理風俗大系 近畿地方」
- ^ 斉藤武雄 「六甲山系の風致保存」『公園緑地』1巻10号 pp.8~15 1937年
- ^ 坂本勝⽐古『阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究(2)』住宅総合研究財団 研究年報 No.21、1994年、215頁
- ^ 坂本勝比古「郊外住宅地の形成」『阪神間モダニズム』淡交社、1997年、37-38頁
- ^ 山形政昭「ミッション建築家ヴォーリズの住宅とその遺産 ─ Column・アメリカン・ボード・ミッション住宅とナショナル・シティ銀行の住宅」『阪神間モダニズム』淡交社、1997年、79頁
- ^ 山形政昭「阪神間に生きた建築家とその作品 ─ Column・「自由様式」のなかの和の意匠 安井武雄──滴翠美術館とその周辺」『阪神間モダニズム』淡交社、1997年、89頁
- ^ 角川日本地名大辞典([1])
- ^ 坂本勝比古「阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究(2)」住宅総合研究財団 研究年報 No.21、1994年、212頁
- ^ 阪急・阪神沿線文学散歩([2])
- ^ 山下忠男『町名の話―西宮の歴史と文化』
- ^ 夙川自治会『夙川地区100年のあゆみ』
- ^ 『町名改称ニ関スル調査経過大要』1935年(昭和10年)
- ^ 『西宮文学風土記』、神戸新聞出版、1982年
参考文献
編集- 神戸新聞出版センター(編集・制作) 編『兵庫県大百科事典 上巻』神戸新聞出版センター、1983年。