飛鳥衣縫樹葉
経歴・人物
編集百済よりの渡来した新漢人(いまきのあやひと)である飛鳥衣縫部の伴造で[2]、東漢氏の配下にあった、飛鳥衣縫氏の祖である[2]。崇峻天皇元年(588年)に蘇我馬子が法興寺(のちの飛鳥寺)を造営する際、自らの宅地を寺地として提供した[2]。馬子はこの地を飛鳥の真神原、あるいは飛鳥の苫田となづけたという。
記録にはないが、飛鳥川の弥勒石付近にあったとされる木葉堰も、彼が造ったものだと想定されている。その根拠は、木葉堰より引かれた水は上述の飛鳥の真神原を潤すものであり、最後は埴安池(はにやすのいけ)にたたえられたようなのである。斉明天皇のころの漏刻跡である石神遺跡なども、この水を利用したようである[3]。