6世紀
6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。
千年紀: | 1千年紀 |
---|---|
世紀: | 5世紀 - 6世紀 - 7世紀 |
十年紀: |
500年代 510年代 520年代 530年代 540年代 550年代 560年代 570年代 580年代 590年代 |
できごと
編集500年代
編集- 502年 - 南朝の斉に代わり蕭衍(武帝)が梁を建てる
- 503年 - 「癸未年八月」の干支銘をもつ人物画像鏡が和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる(癸未年を443年とする説もある)。
- 504年 - 東ゴート国王テオドリックがゲピド族をカルパティア山脈周辺から放逐する。
- 506年 - アルメニア使徒教会の全主教会議により、カルケドン信条の不採択が決定される(アルメニア使徒教会の独立)。
- 507年
- 507年-511年頃 - フランク国王クローヴィス1世のもとで「サリカ法典」が編纂される。
- 507年頃 - バーミヤンの大仏(東大仏)が建造される(西大仏は551年頃)。
510年代
編集- 510年代 - エフタルのトラマーナ王と続くミヒラクラ王がインドにたびたび侵入する。
- インドに定着したミヒラクラ王により大規模なインドにおける仏教の弾圧(破仏)が行われる。
- 511年
- 512年
- 513年 - 百済から五経博士の段楊爾が来日する(日本最古の五経博士の記録)。
- 515年 - 北魏で大乗の乱が起こる。
- 518年 - ガリラヤ湖畔のベト・アルファのシナゴーグの床モザイク壁画が作成される( - 527年)。
520年代
編集- 520年
- 520年頃
- スウェーデン・ウプサラ大学カロリーネ図書館所蔵のゴート語訳『コデックス・アルゲンティウス(銀文字聖書)』が作成される。
- 523年
- 524年頃 - 東ゴート王国の執政官であったボエティウスが処刑される。この時期までに『哲学の慰め』が執筆される。
- 525年
- 525年頃
- 526年
- 526年 - 539年
- 527年
- 527年 - 565年頃
- 528年
- 529年
530年代
編集- 530年 - ユスティニアヌス1世が古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』編纂を命じる(533年完成)。
- 531年
- 532年
- 533年
- 534年
- 534年頃
- 535年
- 536年 - 安閑天皇崩御、宣化天皇即位。
- 537年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂が再建される。
- 現存するイスタンブールの「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。
- 538年
- 539年
540年代
編集- 540年
- 540年頃 - ベネディクトゥスが「ベネディクトゥスの修道規則」を定める。
- 541年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がローマ共和政以来の執政官(コンスル)を廃止する。
- 542年 - 570年 - ヨルダン西部マダバの聖ゲオルギオス教会の床モザイクに中東地域の地図が描かれる(マダバ地図)。
- 543年
- 東ローマ帝国で「ユスティニアヌスのペスト」が大流行。
- 東ゴート国王トーティラがヌルシアのベネディクトゥスを訪問。
- ヌビアのノバティア王国がキリスト教に改宗する。
- 543年頃
- 546年
- 546年頃 - ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂が献堂される。
- 548年 - 梁で侯景の乱。翌年には建康が陥落し梁の武帝が憤死。
- 549年 - ラヴェンナ近郊のサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂が献堂される。
550年代
編集- 550年
- 550年頃
- インドでグプタ朝が完全に滅亡。
- サーサーン朝のホスロー1世によりクテシフォンに「ホスローのイーワーン」が建立される。
- ネストリウス派の修道士により中央アジアから東ローマ帝国に絹の製法が伝えられる(東ローマ帝国の養蚕伝来)。
- 552年
- 553年 - 第2コンスタンティノポリス公会議で「三章問題」が討議されその著作が排斥される。
- 554年
- 555年
- 556年
- 557年
- 梁を滅ぼした陳霸先(武帝)が陳を建国。
- コンスタンティノポリス大地震。
- コンスタンティノポリス城壁や、ハギア・ソフィア大聖堂ドーム部分(翌558年に崩壊)に大きな被害が生じる。
- 558年
- サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が突厥の室点蜜(イステミ)と同盟し、ゴル・ザリウンの戦い(ブハラの戦い)でエフタルを滅ぼす。
- クロタール1世によりフランク王国が再統一される( - 561年)。
560年代
編集- 560年 - 西ゴート国王アタナギルドがトレドに遷都。
- 562年
- 563年 - 修道士コルンバがスコットランド西海のヘブリディーズ諸島アイオナ島に新たなアイオナ修道院を創建する。
- 564年 - 大英博物館所蔵のトゥルム遺跡出土の「トゥルム石碑1」に刻まれている年はこの年のもの。
- 565年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が死去。
- 567年 - ゲピド王国がランゴバルド人に征服され、国王クニムンドが殺害される。
- 568年
- 569年
570年代
編集- 570年
- 571年 - 北斉の高官徐顕秀の墓が山西省太原に作られる。
- 572年
- 574年 - 北周の武帝の廃仏が始まる(建徳の廃仏、三武一宗の法難の一つ)。
- 576年 - 新羅の真興王によって花郎が組織される。
- 577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。
- 578年 - 世界最古の会社である金剛組(大阪市)が創設される。
- 579年 - 西ゴート王子ヘルメネギルドのカトリック改宗と、父王レオヴィギルドへの反乱。
580年代
編集- 580年頃 - スラヴ人が北ギリシャに侵入する。
- 581年
- 582年
- 583年
- 584年
- 585年
- 586年 - メソポタミア北部ザグバの聖ヨハネ修道院で「ラブラの福音書(フィレンツェ・ラウレンツィアーナ図書館蔵)」が作られる。
- 587年 - 用明天皇崩御、蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす(丁未の乱)、崇峻天皇即位。
- 588年 - 蘇我馬子の発願による日本最初の本格寺院の法興寺(飛鳥寺)の造営が始まる( - 596年)。
- 589年
590年代
編集- 590年
- 590年頃 - エルサルバドルのホヤ・デ・セレン遺跡がロマ・カルデーラ山の噴火によって埋没する。
- 591年 - 東ローマ皇帝マウリキオスがカルタゴに総督府を設置。
- 592年
- 593年 - 聖徳太子の発願による四天王寺の造営が始まる。
- 594年
- 法隆寺五重塔心柱のヒノキ材の伐採年代が年輪年代法によりこの年(推古2年)のものと判明している。
- トゥールのグレゴリウスが『歴史十巻(フランク史)』を完成させ、この年に死去。
- 596年 - 教皇グレゴリウス1世により修道士アウグスティヌスがイングランド宣教に派遣される。
- 597年 - ケント王エゼルベルトによりアウグスティヌスは布教を許され、初代カンタベリー司教に任ぜられる。
- 598年 - 隋で科挙が行われる。高句麗遠征(隋の高句麗遠征)に失敗する。
- 599年 - 東突厥の啓民可汗に隋の義成公主が嫁ぐ。
- 599年頃 - 西突厥の泥利可汗を記念するソグド語碑文がイリ地方の昭蘇石人に刻まれる。
600年代
編集伝説・架空のできごと
編集- 502年 - 514年 - 梁の武帝は風狂の僧宝誌を尊崇し、その肖像画を描かせるべく三人の画家を遣わした。宝誌が画家たちの前で自らの顔に裂け目を入れ、顔の皮を左右に拡げると、中から十一面観音菩薩の顔が現れた。かくして画家たちが描いた肖像画を見て武帝は再度宝誌を追うが、その姿を二度と見ることはなかった(原型は南朝梁の慧皎『高僧伝』巻10。『宇治拾遺物語』他の記述に発展。京都市西住寺の宝誌和尚像も有名)。
- 502年 - 549年 - 梁の武帝の治世に活躍した画家の張僧繇が金陵安楽寺の壁画に龍を描き、ややあって目を書き入れたところ龍が画中から動き出し瞬く間に天上に駆け上っていった(張彦遠『歴代名画記』「画竜点睛を欠く」の故事。他の出典として『水衡記』)。
- 507年 - 越前国味真野に住んでいた、応神天皇の子孫である大迹部皇子(男大迹皇子・継体天皇)のもとに急使が届き、次の帝の候補として白羽の矢が立てられた。皇子は都への旅路を急ぐかたわら、この地に残すことになる恋人照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ(花籠))を届けさせる(世阿弥の謡曲「花筐」)。
- 528年 - コネチカット州ハートフォード出身のハンク・モーガンは、兵器工場の職長であった。ある日モーガンは部下に殴られて気絶する。意識を取り戻すと目の前には騎士がいて、騎士に連れて行かれた先はキャメロットだった。モーガンは自分がかのアーサー王宮廷にいることを知る(マーク・トウェインの小説『アーサー王宮廷のヤンキー』)。
- 537年 - アーサー王の遠征中にモルドレッドが反乱を起こし、カムランの戦いで王が討伐した。しかし王は激戦の末、瀕死の重傷を負い、治療のためアヴァロンへ赴き、この地で最期を迎えることとなる。またアーサー王は未来のいつかに目覚めて人々を救うために帰ってくるため、ここで眠っているだけだという(「アーサー王帰還伝説」。最古の記述は『カンブリア年代記』、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王伝』などで発展)。
- 564年 - 洛陽が北周軍に包囲された時、敵の策謀を疑い門は閉じられたままだった。救援に来た北斉の将軍高長恭(蘭陵王)が門前で兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌を見て門兵が扉を開いた。以後もその美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、高長恭は常に異形の仮面をつけて戦い続けた(雅楽「蘭陵王」)。
- 557年以降 - 581年頃 - 北周から隋の間に長安にいた若者杜子春が財産を使い果たし、仙人の鉄冠子のもとで修行に励むが、ふとした過ちで不老長寿の夢を絶たれてしまう(原作は唐の李復言の伝奇小説『続玄怪録』の「杜子春伝」。日本の芥川龍之介の翻案小説、『杜子春』は時代・場所のほか物語に大きく変更あり)。
- 562年以降 - ゲルマン諸族を打ち破り、帝国領土の回復に顕著な貢献したにもかかわらず、思いがけぬことで東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の寵を失った歴戦の勇士・老いた将軍ベリサリウスは、追放されて盲目にされたばかりでなく、陋巷で物乞いをして人々の慈悲にすがるような哀れな最期を迎えることになった(ジャン・フランソワ・マルモンテルの歴史小説『べリゼール』、この小説に想を得たジャック・ルイ・ダヴィッドの油彩画「施しを乞うベリサリウス(リール美術館蔵)」も有名)。
- 565年 - アイルランド人でアイオナ修道院長でもあったコルンバは、スコットランド北部を布教する際に、人々を苦しめていたネス川に潜む怪物を聖なる力で追い払った(ローナ修道院長アダムナンによる『聖コルンバ伝(Vita Columbae)』。ネス湖の未確認生物「ネッシー」の最古の記録ともされる)。
- 581年以降 - 広東省の羅浮山麓は梅の名所で、隋の開皇年間に将軍趙師雄がここである清楚な美女に出会い、歓談し酒を酌み交わした。酔いが覚めるとただ一人。美女は梅花の精霊であった(柳宗元「龍城録 趙師雄酔憩梅花下」に見える「羅浮仙伝説」)。
- 585年以前 - 日本の敏達天皇の時代、元興寺(飛鳥寺)の童子が怪死する事件が相次いだ。雷神により授かったとされる尾張出身の怪力の童子がその元興寺の妖怪を倒し、怪異は収まった。この童子こそ道場法師の前身である(景戒『日本霊異記』)。
- 590年以降 - 若きペルシア王子ホスロー(後の皇帝ホスロー2世)はアルメニアに赴き、その王女シーリーンと運命的な出会いを果たす。互いに惹かれ合うもホスローは、帝国の内乱を鎮圧するのに忙殺され、その鎮圧のため助力を仰ぐ東ローマ皇帝(カエサル)の王女マルヤムとの縁組を承諾せざるを得なくなる。互いにすれ違う二人を待ち受ける波乱万丈な運命はまだまだ続く(ニザーミー『ホスローとシーリーン』)。
時代の動向
編集東アジア
編集大陸
編集華北を統一していた北朝北魏の政権中枢が前世紀末に南遷し漢化政策を推し進めた結果、モンゴル高原から南下する柔然の侵攻からの国土防衛を担っていた六つの軍事駐屯地、すなわち鎮の軍隊が著しい地位低下に見舞われ不満を募らせた末に反乱を起こす(六鎮の乱)。戦乱の末に北魏は東西に分裂し、懐朔鎮出身の高歓率いる六鎮の主力と山東系の漢人貴族が結びついて北魏皇族を戴く東魏と、武川鎮出身の宇文泰率いる武川鎮軍閥が関中に拠って北魏皇族を戴く西魏が成立する。やがて東魏では高氏、西魏では宇文氏が皇位に登り北斉、北周が成立する。当初の劣勢を跳ね返した北周が北斉を下して華北を再統一するが、北周政府の実権を掌握したやはり武川鎮軍閥軍閥出身の楊氏(普六茹氏)への禅譲が行われて隋が成立し、この政権のもとで柔然に代わって北方から圧力をかけてくる突厥に内部離間を誘って東西分裂により弱体化させることに成功するとともに南朝の陳が征服され、西晋滅亡以来の南北朝統一が成る。
朝鮮半島
編集日本
編集日本では古墳時代後期にあたる。ただし、泊瀬部大王(後の崇峻天皇)が暗殺され異母姉の額田部皇女(後の推古天皇)が立てられた崇峻天皇5年(592年)以降、または厩戸王(後の聖徳太子)が摂政になった推古天皇元年(593年)以降は、飛鳥時代に区分される場合もある。
- それまでのヤマト王権の王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前と近江に地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏、物部氏、巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統の手白香皇女を皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川鎮軍閥系の政権によって大陸が華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。
- 考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国が弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国が新羅に併合されている。
- 前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。
- この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳の伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央、さらには地方首長の統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。
西アジア
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南アジア
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東南アジア
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ヨーロッパ
編集西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパは暗黒時代と呼ばれる時代に入る。言葉の与える印象ほどに庶民の暮らしが厳しかったわけではないが[2]、それでも強力な国家の消滅と分散により、古代ローマに栄えた学問や芸術は消え去っていった。知識の担い手として代わりに後を引き継いたのだのが修道院で、ベネディクトゥスが戒律を定めたのもこの頃である。
東のビザンツ帝国ではユスティニアヌス1世が登場し帝国は小康状態を取り戻していたが、ホスロー1世率いるサーサーン朝のとの戦いは劣勢にあり、またゴート戦争で獲得した旧西ローマ領も短期間で失われ、往年の勢いを取り戻すことはできなかった。
人物
編集地中海世界とヨーロッパ
編集イタリア(東ゴート王国からランゴバルド王国まで)
編集- ディオニュシウス・エクシグウス(470年頃 - 544年) - ローマの神学者・教会法学者・キリスト紀元(西暦)を案出。
- ヌルシアのベネディクトゥス(480年頃 - 547年) - 西方教会における修道制の創設者・モンテ・カッシーノ修道院を建立。
- スコラスティカ(480年頃 - 547年頃) - ヌルシアのベネディクトゥスの双子の姉妹・ベネディクト女子修道院の創設者。
- ボエティウス(480年頃 - 524年頃) - 東ゴート王国の執政官で哲学者・神学者。著作に『哲学の慰め』がある。
- カッシオドルス(485年頃 - 585年頃) - 東ゴート王国の執政官で哲学者・神学者。ウィウァリウムの修道院に隠棲する。
- トーティラ(? - 552年) - 東ゴート国王(在位541年 - 552年)・ゴート戦争で東ローマ帝国軍に抵抗しタギナエの戦いで戦死。
- アルボイン(526年? - 572年) - ランゴバルド王国の初代国王(在位560年 - 572年)・東ローマ支配を覆す。
- フォルトゥナトゥス(530年頃 - 610年頃) - イタリアのラテン詩人・聖十字架の賛歌「王の旗が進む」や『聖ラデグンディス伝』がある。
- グレゴリウス1世(540年 - 604年)- ローマ教皇(在位590年 - 604年)・ゲルマン系諸民族への宣教を推進。
フランク王国
編集- クロタール1世(497年 - 561年) - メロヴィング朝フランク王国ソワソンの王(在位511年 - 561年)・ブルグント王国を滅ぼす。
- テウデベルト1世(500年頃 - 547年/548年) - メロヴィング朝フランク王国のランス(アウストラシア)王。
- テウデバルド(535年 - 555年) - メロヴィング朝フランク王国のランス(アウストラシア)王・テウデベルト1世の子。
- フレデグンデ(? - 597年) - フランク王国ネウストリア王キルペリク1世の王妃・ブルンヒルデの政敵。
- ブルンヒルド(543年頃 - 613年) - フランク王国アウストラシア王シギベルト1世の王妃・フレデグンデの政敵。
- パリのゲルマヌス(496年 - 576年) - パリ司教・フランク王国のキリスト教化につとめサン=ジェルマン=デ=プレ教会にその名が残る。
- トゥールのグレゴリウス(530年頃 - 594年頃) - フランク王国の司教・年代記作家で『歴史十巻(フランク史)』の著者。
- アルルのカエサリウス(468年/470年 - 542年) - レランスの修道院長・アルルの司教・ガリア教会の復興を指揮する。
イングランド・アイルランド
編集- クロンファートのブレンダン(484年頃 - 578年頃) - アイルランドの修道士・各地への宣教で知られ『聖ブレンダンの航海』で伝説化される。
- ギルダス(494年/516年 - 570年) - イングランドの司祭・その知識と文才で「賢明なるギルダス」と呼ばれ著作『ブリトン人の没落』を残す。
- コルンバ(521年 - 597年) - アイルランド出身の修道士・アイオナ修道院を創建し各地へ宣教・コルンバヌスは弟子。
- カンタベリーのアウグスティヌス(? - 604年/605年)- 初代カンタベリー大司教・ケント国王エゼルベルフトを洗礼する。
西ゴート王国
編集- セビリャのレアンデル(549年以前 - 599年/601年) - セビリャ大司教・国王レカレド1世の改宗に活躍・後継の大司教イシドールスは実弟。
- レカレド1世(559年頃 - 601年) - 西ゴート王国国王(在位586年 - 601年)・アリウス派からカトリック教会に改宗。
東ローマ帝国
編集- ユスティニアヌス1世(482年 - 565年) - 東ローマ皇帝(在位527年 - 565年)。東ローマ帝国の最大版図を築いた。
- テオドラ(500年頃? - 548年)- 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の皇后。ニカの反乱で窮地に至った皇帝を励ます。
- マウリキウス(539年 - 602年) - 東ローマ皇帝(在位582年 - 602年)・帝国再建のため各地に総督府を設置・フォカスに暗殺される。
- ベリサリウス(505年 - 565年) - 東ローマ帝国の将軍・サーサーン朝やヴァンダル王国/東ゴート王国との戦いに勝利。
- ナルセス(478年 - 573年) - 東ローマ帝国の政治家・宦官・将軍。解任されたベリサリウスを継ぎイタリアの東ゴート王国を征服。
- カイサレイアのプロコピオス(生没年不詳) - 東ローマ帝国の歴史家。ユスティニアヌスの再征服に関する『戦史』『秘史』の著者。
- ヨルダネス(? - 578年頃) - 東ローマ帝国の歴史家。『ゴート人の歴史』はゴートに関する最重要史料。
- トリボニアヌス(? - 543年/545年) - 東ローマ帝国の法務官僚。『ローマ法大全』を編纂。
- アンティオキアのセウェロス(465年頃 - 538年) - アンティオキア総主教・非カルケドン派正教会を指導し合性論を構築する。
- ヤコボス・バラダイオス(500年頃? - 578年) - 東ローマ帝国のエデッサ主教・合性論のシリア正教会(ヤコブ派)をシリアで組織する。
- ダマスキオス(458年頃 - 538年以降) - アテネのアカデメイア学園最後の学頭。ユスティニアヌス帝の学園封鎖に立ち会う。
- ヨハネス・ピロポノス(490年 - 570年) - アレクサンドリアの哲学者・アリストテレスの注釈批判を行う・後年は神学者として『証人』を執筆
- トラレスのアンテミオス(474年 - 534年) - 東ローマ帝国の建築家・数学者・ハギア・ソフィア大聖堂を設計し建立する。
- ミレトスのイシドロス(生没年不詳) - 東ローマ帝国の建築家・数学者・トラレスのアンテミオスと協力しハギア・ソフィア大聖堂を建立。
- カエサレアのプリスキアヌス(生没年不詳) - 東ローマ帝国で活躍した北アフリカ出身のラテン文法学者・『文法学教程』は後世に影響。
- コスマス・インディコプレウステース(生没年不詳) - エジプト出身の商人・修道士・インド洋貿易にまつわる『キリスト教地誌』を残す。
西アジア
編集- マズダク(? - 524年/528年) - サーサーン朝の宗教家・マズダク教の開祖・カワードに庇護されるがホスロー1世に弾圧される。
- ホスロー1世(? - 579年) - サーサーン朝ペルシア帝国のシャー(在位531年 - 579年)・中央アジアや東ローマへの対外遠征を行う。
- アンタラ・イブン・シャッダード(525年 - 608年) - ジャーヒリーヤ時代のアラビアの英雄・詩人としても有名で『アンタラ物語』のモデル。
中央アジア
編集- ミヒラクラ(? - 533年以降) - エフタルの王(在位512年 - 528年頃)・大規模な仏教弾圧を実施。
- 伊利可汗(? - 552年) - 突厥の可汗(カガン)(在位552年)・柔然から独立・西魏に遣使し長楽公主と婚姻する
- 木汗可汗(? - 572年) - 突厥の可汗(カガン)(在位553年 - 572年)・柔然を滅ぼしエフタルを攻略して突厥に最盛期をもたらす。
- バヤン(? - 602年) - アヴァールの王(カガン)(在位562年 - 602年)・ドナウ川を渡りゲピド王国を倒しアヴァール王国を建国。
南アジア
編集- アリヤバータ(476年 - 550年頃) - インドのグプタ朝の数学者・天文学者・著作『アーリヤバティーヤ』では円周率の近似値などに言及。
- ディグナーガ(陳那)(480年頃 - 540年頃) - インド仏教の有相唯識派の学僧・「因明学」と呼ばれる仏教論理学を確立した。
- プラケーシン1世(? - 566年) - インド・デカン高原の前期チャールキヤ朝の初代君主(在位543年頃 - 566年)。
- バーヴァヴィヴェーカ(清弁)(490年頃 - 570年頃) - インド仏教の中観派の学僧・空の思想を積極的に論証する(自立論証派)。
- ダンディン(6 - 7世紀) - インドの文人・小説『ダシャクマーラチャリタ(十王子物語)』や詩論『カーヴィヤーダルシャ(詩作の鏡)』がある。
東アジア
編集南朝
編集- 蕭衍(464年 - 549年) - 南朝梁の初代皇帝(武帝)(在位502年 - 549年)・仏教保護政策により「皇帝菩薩」と称される。
- 達磨(ボーディダルマ)(? - 528年頃?) - インド出身の僧侶で禅宗の開祖。梁の武帝と交流があったか。
- 朱异(483年 - 549年) - 南朝の梁の政治家・東魏から亡命した将軍侯景を受け入れ反乱を誘発させた。
- 侯景(503年 - 552年) - 北朝東魏から南朝梁へ降った軍人・侯景の乱を起こし建康を占領・梁の武帝を餓死させる。
- 宝誌(418年 - 514年) - 南朝宋から梁の僧侶・神異や予言で知られ「野馬台詩」の作者に擬せられる。
- 陶弘景(456年 - 536年) - 南朝梁の医学者・科学者・梁の武帝の信任が厚く「山中宰相」とも呼ばれる。著作に『真誥』など。
- 劉勰(466年? - 532年) - 南朝梁の文学評論家。中国で最初の体系的な文芸理論書『文心雕竜』を著す。
- 周興嗣(470年? - 521年) - 南朝斉から梁の官僚・文章家・初学者の漢字習得用テキスト『千字文』の撰者。
- 慧皎(497年 - 554年) - 南朝梁の僧侶・後漢から梁までの中国僧の事跡を集めた『高僧伝』の撰者。
- 真諦(499年 - 569年) - インド出身の訳経僧・四大訳経家の一人・梁から陳の時代に『摂大乗論』『倶舎論』を翻訳。
- 蕭統(昭明太子)(501年 - 531年) - 南朝梁の武帝の皇太子・文章家・詩文のアンソロジー『文選』の撰者。
- 王僧弁(? - 555年) - 南朝梁の将軍・侯景の反乱を鎮圧し元帝を擁立・江陵失陥後は陳霸先と対立し敗死する。
- 陳霸先(503年 - 559年) - 南朝陳の初代皇帝(武帝)(在位557年 - 559年)。王僧弁の残党の反乱に苦慮する。
- 徐陵(507年 - 583年) - 南朝梁から陳の文学者・政治家・梁の太子蕭綱(後の簡文帝)の命で『玉台新詠』を編纂。
北朝
編集- 鄭道昭(? - 516年) - 北朝北魏の官僚・書家・六朝楷書の代表作である「鄭文公碑」が残る。
- 宋雲(活躍時期518年 - 522年) - 北朝北魏の官僚(僧官か)・西域からインドに赴き経典を求めた・『宋雲行記』が残る。
- 酈道元(469年 - 527年) - 北朝北魏の官人・地理学者として『水経注』をまとめる。
- 曇鸞(476年 - 542年) - 北朝北魏の僧侶・中国浄土教の祖・道綽や善導さらに法然や親鸞に影響・著作に『浄土論註』がある。
- 爾朱栄(493年 - 530年) - 北朝北魏の軍人・河陰の変で霊太后を倒し六鎮の乱を鎮圧して北魏の全権を掌握。
- 高歓(496年 - 547年) - 北朝北魏の政治家・孝静帝を擁立し鄴に東魏政権を立てる・子孫は北斉の皇帝となる。
- 宇文泰(505年 - 556年) - 北朝北魏の政治家・孝武帝を擁立し長安に西魏政権を立てる・子孫は北周の皇帝となる。
- 賈思勰(活躍時期532年頃 - 549年頃) - 北朝北魏の官僚・中国最古の総合的農書『斉民要術』をまとめる。
- 楊衒之(生没年不詳) - 北朝北魏末から東魏の人・洛陽の仏寺の繁栄を記録した『洛陽伽藍記』の撰者。
- 斛律光(515年 - 572年) - 北斉の将軍・宰相・高長恭とともに北斉を支えるが後主によって粛清される・「落鳥都督」と呼ばれる
- 高長恭(541年 - 573年) - 北斉の皇族(蘭陵王)・武勲がありながら「音容兼美」と称され雅楽「蘭陵王」のモデルとなる。
- 宇文邕(武帝)(543年 - 578年) - 北周の皇帝(在位560年 - 578年)・北斉を滅ぼし北中国を統一・周武の法難(廃仏)を実施。
- 衛元嵩(生没年不詳) - 北周の廃仏論者・もとは予言をする風狂の僧として知られ後に還俗・北周武帝の廃仏に影響を与える。
隋
編集- 顔之推(531年 - 591年以降) - 南北朝時代から隋の学者・著書に『顔氏家訓』がある。孫は唐に仕えた顔師古。
- 智顗(538年 - 597年) - 南北朝時代から隋の僧侶・天台宗の第三祖(事実上の開祖)・智者大師・著書に『摩訶止観』がある。
- 信行(540年 - 594年) - 北斉から隋の僧侶・三階教の開祖・長安真寂寺(化度寺)に招かれるが死後に宗派は弾圧される。
- 楊堅(文帝)(541年 - 604年) - 隋の初代皇帝(在位581年 - 604年)・陳を滅ぼし南北朝を統一・その治世が「開皇の治」。
朝鮮
編集- 武寧王(462年 - 523年) - 百済の第25代国王(在位502年 - 523年)・宋山里古墳群の武寧王陵からは墓誌や副葬品が発見される。
- 聖王(聖明王)(? - 554年) - 百済の第26代国王(在位523年 - 554年)・日本に仏教を伝える(仏教公伝)・新羅との戦いで戦死。
日本
編集- 継体天皇(450年? - 531年) - 第26代天皇(在位507年 - 531年)。
- 筑紫君磐井(? - 528年?) - 古墳時代末の九州北部の豪族・磐井の乱を起こす。
- 物部麁鹿火(? - 536年) - 古墳時代の豪族・継体天皇の擁立に貢献・磐井の乱を鎮圧。
- 大伴金村(生没年不詳)- 古墳時代末の豪族・大連・朝鮮半島での任那滅亡に伴い失脚。
- 欽明天皇(509年 - 571年) - 第29代天皇(在位539年 - 571年)・この時代に仏教公伝。
- 物部守屋(? - 587年) - 飛鳥時代の豪族・大連・崇仏論争で排仏を唱え丁未の乱で滅ぼされる。
- 蘇我馬子(551年? - 626年) - 飛鳥時代の豪族・大臣(嶋大臣)・崇仏論争で崇仏を唱え丁未の乱に勝利。
- 司馬達等(生没年不詳) - 飛鳥時代の渡来人・娘に日本最初の出家者善信尼、孫に仏師鞍作止利がいる。
- 推古天皇(554年 - 628年) - 第33代天皇(在位592年 - 628年)・日本最初の女帝。
- 聖徳太子(厩戸皇子)(574年 - 622年) - 推古天皇の摂政・用明天皇の皇子。
脚注
編集出典
編集関連項目
編集外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、6世紀に関するカテゴリがあります。