青山 幸完(あおやま よしさだ / ゆきさだ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名美濃国郡上藩の第2代藩主。官位従五位下大膳亮。幸成系青山家6代。

 
青山幸完
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦2年5月28日1752年7月9日
死没 文化5年11月8日1808年12月24日
戒名 賢明院殿義興仁山大居士
墓所 東京都港区南青山梅窓院浄土宗
官位 従五位下大膳亮
幕府 江戸幕府奏者番若年寄
主君 徳川家治家斉
美濃郡上藩
氏族 青山氏
父母 父:青山幸道、母:不詳
兄弟 幸完幸卓幸賢、妻木頼功、秋田倩季継室、青山幸発正室ら
水野忠友の娘
幸孝、蔵、勝
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略歴

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宝暦2年(1752年)、初代藩主・青山幸道の三男として誕生した。庶子であったが宝暦13年(1763年)に嫡男とされた。

安永4年(1775年)、父の隠居により家督を継ぎ、奏者番若年寄などを歴任する。松平定信寛政の改革が始まると、その与党として改革に協力したが、寛政3年(1791年)9月に病に倒れて辞職する。1,300両の借金をするなど、藩財政の窮乏化が進んだ。また、藩校潜竜館を設置している。天明の大飢饉が起こると、一揆の起こりそうな様相を見せるなど、藩政は不安定であった。

その後も寺社奉行・若年寄などを歴任したが、文化5年(1808年)11月8日、死去。享年57。跡を長男の幸孝が継いだ。

徳川家慶の「慶」の読みとの同音をはばかって、幸完の代から「幸」の読みを「よし」から「ゆき」と改めた。

系譜

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父母

正室

子女