難波頼輔
難波 頼輔(なんば よりすけ、旧字体:難󠄀波 賴輔)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家花山院流、大納言・藤原忠教の四男[1]。蹴鞠の二大流派、難波・飛鳥井両家の祖。
時代 | 平安時代後期 - 末期 |
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生誕 | 天永3年(1112年) |
死没 | 文治2年4月5日(1186年4月25日) |
改名 | 親忠(初名)→頼輔→覚禅(法名) |
官位 | 従三位、刑部卿 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家花山院流難波家 |
父母 | 父:藤原忠教、母:賀茂成継の娘 |
兄弟 | 藤原忠基、藤原教長、頼輔、藤原忠兼、藤原師教、藤原親忠、藤原有教、藤原教良、明源、藤原基教、教仁、教智、教覚、寛敒、藤原通季室 |
子 | 頼経、兼雲、教尊、藤原経家室 |
経歴
編集母方の賀茂神主家に蹴鞠の名手が多かった事から、幼少より鞠を習い「蹴聖」と称された藤原成通に教えを受けたという。天治2年(1125年)従五位下に叙爵。大治2年(1127年)山城守に任ぜられ、保延2年(1136年)治国を賞されて従五位上に昇叙されている。
久寿3年(1156年)正五位下に叙せられるが、同年に発生した保元の乱では、次兄・藤原教長が崇徳上皇の側近であったために常陸国に配流となり、頼輔は乱への積極的な関与はなかったものの、東山に籠居した。その後、芸能を愛する後白河法皇に蹴鞠の才能を認められ、藤原師長・源資賢と共に院近臣に加えられた。その蹴鞠の才は「無双達者」「本朝蹴鞠一道之長」と称された。
永暦元年(1160年)に豊後守となり、鼻が大きかったため「鼻豊後」と呼ばれた。永万2年(1166年)、子・頼経の壱岐守への任官と引き替えに豊後守を辞するが、引き続き豊後国に留まり国務にあたった。同年に従四位下・皇太后宮亮、仁安3年(1168年)に従四位上、嘉応2年12月(1171年2月)に刑部卿、承安元年12月(1172年1月)に正四位下に叙任。
治承5年(1181年)に平清盛が没すると各地で反乱が起こり、頼輔の知行国であった豊後も動乱状態となった。頼輔は知行国の支配安定を図るため豊後に下向[2]、現地の武士・緒方惟栄の説得に成功する。なお、寿永2年(1183年)10月、都を追われ九州に逃れてきた平家一門を撃退したのは、頼輔の命を受けた維栄だった。
養和2年(1182年)、上位者5名(源俊光・藤原季経・藤原泰通・藤原雅隆・藤原信経)を越えて従三位に叙せられ公卿に列した。寿永2年(1183年)周防権守を兼任。文治2年(1186年)2月、病悩により出家するが、同年4月5日に薨去。享年75。
歌人としての活動も活発で、源頼政・藤原清輔・寂蓮ら多くの歌人と交流があった。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に28首入集している[3]。家集に『頼輔集』がある。
官歴
編集- 天治2年(1125年)正月5日:従五位下に叙爵(氏爵)。
- 大治2年(1127年)正月28日:山城守に任ず。
- 保延2年(1136年)正月5日:従五位上に叙す(治国賞)。
- 久寿3年(1156年)正月6日:正五位下に叙す(新年当年御給)。
- 永暦元年(1160年)正月21日:豊後守に任ず。
- 応保元年(1161年)10月19日:大宰大弐に任ず。
- 永万2年(1166年)2月1日:男頼経壱岐守に任ずを以て豊後守を辞す(國務。猶豊後国)。
- 仁安元年(1166年)11月14日:従四位下に叙す(大嘗會叙位次。前待賢門院御給)。12月2日:皇后宮亮に任ず。
- 仁安3年(1168年)3月13日:亮を止む。即ぐ別當に補す。8月4日:従四位上に叙す。
- 嘉応2年12月30日(1171年2月6日):刑部卿に任ず。
- 承安元年12月8日(1172年1月5日):正四位下に叙す(除目下名次。臨時)。
- 養和2年(1182年)4月13日:従三位に叙す。
- 寿永2年(1183年)正月22日:周防権守を兼ぬ。
- 元暦2年(1185年)6月10日:刑部卿を男頼経に譲任す。
- 文治2年(1186年)2月:出家(去年より病悩せり)。4月5日:薨ず。
系譜
編集脚注
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