阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 1965年11月2日[1])は、日本の俳優である。初期の芸名は春見 堅太郎(はるみ けんたろう)など、本名は伊東 石太郎(いとう いしたろう)である[2]

あべ くすお
阿部 九洲男
本名 伊東 石太郎(いとう いしたろう)
別名義 春見 堅太郎(はるみ けんたろう)
阿部 九州男
生年月日 (1910-07-24) 1910年7月24日
没年月日 (1965-11-02) 1965年11月2日(55歳没)
出生地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市寿町
(現在の同県同市中区寿町)
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1929年 - 1965年
配偶者 木下双葉(死別)
東龍子 (再婚)
主な作品
水戸浪士』(1936年)
忠臣蔵』(1937年)
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人物・来歴

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1910年(明治43年)7月24日神奈川県横浜市寿町(現在の同県同市中区寿町)に「伊東石太郎」として生まれる[1][2]

満19歳を迎える1929年(昭和4年)、古海卓二監督の紹介で京都の市川右太衛門プロダクションに入社[2]、「春見堅太郎」の芸名で[2]、同年、城戸品郎監督の『』に出演、大貫三郎衛門役を演じる。市川右太衛門に師事する[3] が、1931年(昭和6年)には関東に戻り、東京・巣鴨河合映画製作社に移籍する[2]。同年、村越章二郎監督の『清水の小政』に出演している[2]。同年、芸名を「阿部九洲男」に改名し、京都に再び舞い戻って、東活映画社(東活)に入社した[2]。同年の東活入社第1作は、金田繁監督の『閃影双刃録』で、古海卓二監督の『評判影法師』に主演し、人気を勝ち取る[2]。同作で競演した女優の木下双葉とこのころ結婚している[4]

1932年(昭和7年)、阿部が月形龍之介と共演し、金田繁が大伴麟三と共同監督したサイレント映画『決戦荒神山』を最後に東活が解散となり、同作は新しく設立された宝塚キネマ興行が配給した。阿部は宝塚キネマに移籍した。東活、宝塚キネマを代表する剣戟俳優と言われるまでとなった[3]。1933年(昭和8年)7月、宝塚キネマで賃金未払いが起き[5]、これを契機に仁科熊彦・大伴麟三両監督による『風流やくざ節』前篇・後篇を最後に、妻の木下双葉とともに宝塚キネマを去り、東京に三度舞い戻り、巣鴨の河合映画の後身・大都映画に復帰した。大都では、師である市川右太衛門ばりの派手な雰囲気が評価され、海江田譲二桂章太郎に比肩する人気を勝ち取り、杉山昌三九と並ぶ活躍をした[2]

1938年(昭和13年)8月30日、妻の木下双葉が病死、死別となった[4]。その後、9歳年下の大都映画の女優・東龍子と再婚した。

1942年(昭和17年)2月、第二次世界大戦開戦による戦時統制で、大都映画は、日活の製作部門、新興キネマと合併し、大日本映画製作(のちの大映)となり、大都での阿部の最後の出演作は、佐伯幸三監督による近衛十四郎主演作『決戦般若坂』となった。同作は同年2月11日に公開され、阿部は、大映に継続入社した。大映入社第1作は、阪東妻三郎主演、牛原虚彦監督の『維新の曲』で、同年5月14日に映画配給社の配給、紅系で公開された。

戦後は、1945年(昭和20年)から、大映京都撮影所丸根賛太郎監督の『狐の呉れた赤ん坊』等に出演した。1951年(昭和26年)には、宝プロダクションが製作した加藤泰監督の劇映画デビュー作『剣難女難 女心伝心の巻』、『剣難女難 剣光流星の巻』に出演している。新東宝、1956年(昭和31年)以降は東映京都撮影所作品に多く出演した。

1965年(昭和40年)11月2日、死去した[1]。満55歳没。生涯に300作内外の映画に出演、生前に撮影していた作品が翌1966年(昭和41年)に3作も公開された。京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル下河原町高台寺に眠る。

フィルモグラフィ

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  1. ^ a b c 『CD-人物レファレンス事典 日本編』、「阿部九州男」の項、日外アソシエーツ、2004年。
  2. ^ a b c d e f g h i 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.127。
  3. ^ a b 講談倶楽部』昭和11年新年号付録、講談社、1936年、「阿部九洲男」の項。
  4. ^ a b 『無声映画俳優名鑑』、p.176。
  5. ^ 御室撮影所立命館大学、2009年11月9日閲覧。

外部リンク

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