久見田喬二
(組田彰造から転送)
久見田 喬二(くみた きょうじ、1903年 - 没年不明)は、日本の映画監督、脚本家である。名は-喬司あるいは-喬次とも書き、組田 彰造(-しょうぞう)とも名乗った。「影造」は誤り。
くみた きょうじ 久見田 喬二 | |
---|---|
別名義 |
久見田 喬司 久見田 喬次 組田 彰造 |
生年月日 | 1903年 |
没年月日 | 不詳年 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 映画、テレビドラマ |
活動期間 | 1920年代 - 1965年 |
活動内容 |
1920年代 日活太秦撮影所 1932年 監督デビュー 1940年 組田彰造と改名 1960年 日本電波映画 |
主な作品 | |
『まぼろし城』三部作 『琴姫七変化』 |
人物・来歴
編集1903年(明治36年)に生まれる。
日活太秦撮影所は、1927年(昭和2年)12月に開業しているが、このころには助監督を始めており、1929年(昭和4年)に公開された片岡千恵蔵プロダクション製作、清瀬英次郎監督の映画『愛染地獄 第一篇』ではチーフ助監督としてクレジットされている[1]。
29歳となる1932年(昭和7年)、『飢えたる武士道』で監督としてデビューする[1]。1936年(昭和11年)に結成された日本映画監督協会に参加するが、とある例会で、マキノ正博と殴り合いのけんかになる[2]。後日、マキノはこの話をどんどん誇張・拡大し、最終的には喧嘩が原因でまもなく死んだことにされてしまった[2]。1940年(昭和15年)、「組田彰造」と改名する[1]。監督協会は1943年(昭和18年)に戦時体制のため一旦解散した。
第二次世界大戦後は、1953年(昭和28年)に『びっくり六兵衛』を監督するまで、表に名前が出てこない[1]。同年、新東宝で『白鳥の騎士』を撮った[1]後は、またしばらく名前が出てこないが、1960年(昭和35年)、日本電波映画が製作するテレビドラマでメイン監督を張る。
62歳を迎えた1965年(昭和40年)以降の消息はわからない。
フィルモグラフィ
編集日活太秦撮影所
編集- 『愛染地獄 第一篇』、監督清瀬英次郎、片岡千恵蔵プロダクション / 日活、1929年 - 助監督
- 『十四郎御用篇』、監督辻吉郎、1930年 - 助監督
- 『飢えたる武士道』、1932年
- 『芝浜の革財布』、1933年
- 『月光人斬橋』、1933年
- 『定九郎小僧』、1934年
日活京都撮影所
編集- 『捕物五月雨格子』、1934年
- 『仮面の敵』、1934年 - 監督・原作・脚本
- 『旅姿桂小五郎』、1934年 - 監督・脚本
- 『気合術三人組』、1935年 - 監督・原作・脚本
- 『旅役者お七狂乱』、1935年
- 『東海道々中双六』、1935年 - 監督・原作
- 『新版やくざ草紙 逃げ水の弥三』、1935年
- 『封印半次郎』、1935年 - 監督・脚本
- 『名刀安綱の行方 前篇』、1936年 - 監督・脚本
- 『名刀安綱の行方 解決篇』、1936年 - 監督・脚本
- 『銀之丞異変 前篇』、1936年
- 『銀之丞異変 解決篇』、1936年
- 『振袖姿弁天小僧』、1936年
- 『極楽武勇伝』、1936年
- 『変化若衆髷 前後篇』、1937年 - 監督・脚本
- 『小町鳶』、1937年
- 『恩讐巡礼歌』、1937年
- 『花見の仇討』、1938年
- 『銀之丞出現』、1938年
- 組田彰造
- 『名月赤城山』、1940年
- 『浪曲一代男』、1940年
- 『まぼろし城 第一部』、1940年
- 『まぼろし城 第二部』、1940年
- 『まぼろし城 第三部』、1940年
- 『天兵童子 第一話 幼き英雄』、1941年
- 『天兵童子 第二話 日本の子』、1941年
- 『天兵童子 第三話』、1941年
- 『天兵童子 第四話 甦る力』、1941年
戦後
編集- 組田彰造
註
編集外部リンク
編集- 久見田喬二 - 日本映画データベース
- 組田彰造 - KINENOTE