阿蘇 (装甲巡洋艦)
「阿蘇」(あそ)は、日本海軍の保有した装甲巡洋艦[3]。日本海軍の正式な類別は 1 等巡洋艦[4][5]。 元はロシア帝国のバヤーン級装甲巡洋艦1番艦「バヤーン」であり、日露戦争における旅順攻囲戦において沈没(大破着底)[6][7]。旅順港を占領した日本海軍に捕獲される[8][9]。 浮揚修理後、日本海軍の軍艦籍編入時に「阿蘇」と改名した[3]。 艦名は阿蘇山に依る[10]。 天皇に奏聞した候補艦名には「熊野」および「生野」があった[11]。
艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1899年3月 |
進水: | 1900年6月12日 |
就役: | 1902年12月 |
除籍: | 1931年4月1日 |
その後: | 1932年8月8日標的艦として処分[1] |
性能諸元 | |
排水量: | 常備:7,726t |
全長: | 135.6m |
全幅: | 17.4m |
吃水: | 6.7m |
機関: | ベルヴィール式石炭専焼缶26基 三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進 16,500hp |
燃料: | 石炭 1,100t |
最大速: | 22ノット[2] |
航続距離: | 7,000海里(10ノット時) |
兵員: | 570名(敷設艦時619名)[2] |
装甲: | 水線帯: 100-200mm 主砲塔: 88-170mm 砲廓: 80mm 甲板: 25-50mm |
兵装: | 45口径20.3cm単装速射砲2基 45口径15.2cm単装速射砲8基 7.6cm単装速射砲16基 45.7cm水中魚雷発射管2門 |
艦歴
編集「バヤーン」時代
編集フランス、ラ・セーヌのフォルジ・エ・シャンティエ・ドゥラ・メディテラネ造船会社で建造[12]。1899年2月[13][14]、ないし3月起工[2]。1900年6月12日進水[14]。1903年2月[14]ないし4月竣工[15]。
引き渡し後、アテネ、ブリンディジ、ナポリなどを訪れてからクロンシュタットへ向かった[16]。1903年8月7日、極東へ向けて出発[16]。12月2日に戦艦「ツェサレーヴィチ」とともに旅順口に到着した[10][17]。
1904年1月27日/2月9日未明、戦艦「ペトロパヴロフスク」以下「バヤーン」も含むロシア艦艇が旅順港外に停泊していたところを日本の駆逐隊が襲撃し、戦艦「ツェサレーヴィチ」、「レトヴィザン」と巡洋艦1隻が被雷[18]。次いで同日昼には日本海軍の第一戦隊(三笠、朝日、富士、八島、敷島、初瀬)、第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常盤、磐手)、第三戦隊(笠置、千歳、高砂、吉野)がロシア側と交戦した[19]。この戦闘で「バヤーン」は火薬庫に被弾して火災が起きた[20]。「バヤーン」の被弾数は10発で、人的被害は死者6名負傷者35名であった[21]。
3月10日、駆逐艦「レシーチェリヌイ」と「スチェレグーシチー」が日本の第三駆逐隊(薄雲、東雲、曙、漣)の攻撃を受け、「スチェレグーシチー」は日本側に捕獲された[22]。巡洋艦「ノヴィーク」と「バヤーン」が「スチェレグーシチー」救援に向かい、日本側が「スチェレグーシチー」を曳航しようとしているところに現れて日本の駆逐艦を砲撃したが、日本の第四戦隊(浪速、高千穂、新高)が現れるとロシア側は退避した[23]。
4月12日に裏長山列島の偵察に向かった駆逐艦8隻のうち、「ストラーシヌイ」と「スメールイ」が他艦とはぐれた[24]。そのため2隻は旅順へ向かったが、さらに「スメールイ」ともはぐれた「ストラーシヌイ」は4月13日に日本の駆逐隊(雷、電、朧、曙)と遭遇し攻撃を受けた[25]。駆逐艦の帰還援護のため出撃していた「バヤーン」は砲声を聞き、さらに「スメールイ」から情報を得て現場へと向かい、日本の駆逐隊に対して砲撃を行った[26]。日本の駆逐艦が退避すると「バヤーン」は沈没した「ストラーシヌイ」の生存者5名を救助した[27]。一方日本側は第三戦隊(千歳、高砂、吉野、常磐、浅間)が来て「バヤーン」を攻撃[27]。交戦後、「バヤーン」は撤退した[28]。この戦闘で「バヤーン」は左舷後部に被弾した[28]。「ストラーシヌイ」救援のため戦艦「ペトロパヴロフスク」などが出撃したが、「ペトロパヴロフスク」と戦艦「ポベーダ」が触雷して「ペトロパヴロフスク」は沈没するという結果になった[29]。
6月23日、戦艦「ツェサレーヴィチ」以下「バヤーン」も含むロシア艦隊は出港したが、日本艦隊と遭遇すると引き返した[30]。
7月26日、「バヤーン」は巡洋艦「パルラーダ」、「アスコリド」などとともに大河湾へ向かい、「バヤーン」は日本の第二駆逐隊を攻撃した[31]。日本の第五戦隊と第六戦隊が接近するとロシア側は撤収[32]。その際、「バヤーン」はロシア側を追跡する第五戦隊と交戦した[32]。この出来事の際、日本側では巡洋艦「千代田」が触雷している[32]。
7月27日、「バヤーン」や戦艦「レトヴィザン」などが大河湾へ向かい、日本軍陣地を砲撃[33]。日本の巡洋艦「日進」、「春日」の砲撃を受けるとロシア側は旅順へ退却したが、入港時に「バヤーン」は触雷した[34]。そのため「バヤーン」は8月10日の黄海海戦には参加していない[16]。修理には9月まで要した[16]。
8月、日本軍は砲台を設置して旅順に対する砲撃を開始する[35]。「バヤーン」は10月10日に28cm砲弾4発、10月24日に12cm砲弾2発を受け、機関や舵軸が損傷した[36]。12月5日に203高地の左右の頂上が日本軍に占領されると、そこに観測所を設置した日本軍の砲撃で港内のロシア艦艇は撃沈されていく[37]。12月8日、「バヤーン」は10発被弾[38]。火災が発生し弾薬庫に注水したため、艦首が沈んで水線上の破孔から浸水する[38]。翌日さらに11インチ砲弾11発が命中し、左舷に15度傾いて沈没した[38]。
「阿蘇」時代
編集1905年(明治38年)1月1日、旅順要塞のロシア軍は降伏[10]。一部資料によると、バヤーンはロシア海軍により爆破された[39][40]。 5月25日、日本海軍は本艦の浮揚作業に着手する[41][42]。旅順攻囲戦で沈没した戦利艦各艦の中で、最初に浮揚作業に着手した艦艇だったという[43][5]。 6月24日、浮揚成功[41][44]。 8月22日、バヤーンは戦利艦として日本艦籍に編入される[5]。軍艦阿蘇と改名[3][45]。舞鶴鎮守府籍[5]。 阿蘇は戦艦鎮遠に曳航され、駆逐艦霞(護衛)と共に内地へ向かうことになった[46]。8月23日、3隻(阿蘇、鎮遠、霞)は旅順(大連)を出発する[41][47]。 8月27日附で、1 等巡洋艦に類別[4][48][5]。 8月28日、3隻(阿蘇、鎮遠、霞)は舞鶴に到着した[41][47]。阿蘇は1908年(明治41年)まで改造修理を行う。大修理が必要だったため、横浜沖の凱旋観艦式には参列できなかった[5]。
1909年(明治42年)から1911年(明治44年)まで、練習艦隊で少尉候補生の遠洋航海に従事。阿蘇と宗谷(旧ヴァリャーグ)は練習艦として活躍した[49]。第一次世界大戦中は、日本近海の哨戒に当たる[49]。
同時期、日本海軍は機雷敷設艦に改造予定(高千穂は改造済)の浪速型防護巡洋艦2隻(浪速、高千穂)を相次いで喪失したため、旧式装甲巡洋艦の敷設艦改造に順次着手[50]。「津軽」(大正4年、四号機雷400個)、続いて「阿蘇」(大正6年、五号機雷420個)が改造される[50]。1920年(大正9年)4月1日、艦艇類別等級の改正[50]。3隻(阿蘇、津軽、勝力《新造艦》)は敷設艦に類別変更[51][52][53]。主砲塔が撤去される。 1922年(大正11年)のシベリア出兵に際しては、沿海州海域に出動した。
1931年(昭和6年)4月1日、除籍[54]。阿蘇は廃艦第4号と仮称される[55]。日本海軍は敷設艦2隻(阿蘇、常磐)の代艦としてロンドン軍縮条約により新型敷設艦を建造することになり[50]、阿蘇代艦として沖島(2代目)が建造された(沖島は1934年9月27日起工、1935年11月15日進水、1936年9月30日竣工)[53][56]。
沈没
編集1931年(昭和6年)4月1日、旧式化した軍艦3隻(利根、筑摩、阿蘇)は、それぞれ軍艦および敷設艦より除籍[54]。廃艦第2号(利根)[57][55]、廃艦3号(筑摩)[55]、廃艦4号(阿蘇)と仮称[55]。本艦は20cm砲および潜水艦魚雷の標的艦として使用されることになり、準備を行う[58]。
1932年(昭和7年)8月7日、横須賀に繋留されていた廃艦4号(阿蘇)は妙高型重巡洋艦4番艦羽黒に曳航されて出港[59][60]。 8月8日、横須賀および館山等には多数の艦艇が停泊していた[61]。 午前9時頃より、各艦(金剛、妙高、那智、潜水艦部隊)は館山を出動[62]。一方、羽黒は廃艦4号(阿蘇)を東京湾外北緯34度32分 東経139度56分 / 北緯34.533度 東経139.933度附近まで曳航[63]。午後1時以降、演習を開始。第四戦隊第1小隊(妙高、那智)が射撃を行う[64]。砲撃と雷撃による損傷を受け、阿蘇は沈没した。
艦長
編集※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 石井義太郎 大佐:1907年10月15日 - 1909年10月1日
- 佐藤鉄太郎 大佐:1909年10月1日 - 1910年9月26日
- (兼)笠間直 大佐:1910年12月1日 - 12月17日
- 中島市太郎 大佐:1911年4月1日 - 1912年5月22日
- (兼)広瀬順太郎 大佐:1912年9月27日 - 12月1日
- 榊原忠三郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 小山田仲之丞 大佐:1913年12月1日 - 1915年10月1日
- 有馬純位 大佐:1915年10月1日 - 12月13日
- 桑島省三 中佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 花房太郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 大見丙子郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年6月1日[66]
- 中川寛 大佐:1918年6月1日[66] - 1918年11月10日[67]
- 井手元治 大佐:1918年11月10日 - 1919年11月20日
- 小泉親治 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月20日
- 森本兎久身 大佐:1920年11月20日 - 1922年7月1日[68]
- 七田今朝一 大佐:1922年7月1日 - 11月10日
- 原道太 大佐:不詳 - 1923年7月20日[69]
- 徳田伊之助 大佐:1923年7月20日 - 1924年5月7日
- 高橋三吉 大佐:1924年5月7日 - 11月10日
- 山口延一 大佐:1924年11月10日 - 1925年11月20日
- 畔柳三男三 大佐:1925年11月20日 - 1926年11月15日
- (兼)清宮善高 大佐:1926年12月1日[70] - 1927年1月10日[71]
ギャラリー
編集-
装甲巡洋艦時代の「阿蘇」。
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装甲巡洋艦時代の「阿蘇」。
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1911年に撮影された「阿蘇」。
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1924年、横須賀にて撮影された「阿蘇」。主砲塔が撤去されるなど、機雷敷設艦への改装工事が施されている。
脚注
編集- ^ #S0706足柄(2)p.8『第四戰隊第一小隊 廢艦射撃』
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻11、1940)1064-1065ページ(国会図書館デジタルコレクション、コマ番号558)『(艦名)阿蘇|(艦種)敷設艦|長(米)129.79|幅(米)17.55|吃水(米)6.93|排水量(噸)常備7,800/基準7,180|速力(節)22.0|(乗員數)619|(短艇數)11|(製造所)佛國フオルジエーシヤンテー社|(起工年月日)32-3|(進水年月日)33-6|(竣工年月日)(6-1-13改)|主要兵装/(大砲)15c/m 10、8c/m 11|(機銃)2|(發射管)―|(探照燈)4|機械/(種類)直立四段膨張式(數)4|罐(種類)ベルビール式(數)26|(推進器數)2|(備考)-』
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰利軍艦相摸肥前命名ノ件 明治三十八年八月二十二日(達一一一)戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)p.52『◎明治三十八年八月二十七日(達一一四)軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ』
- ^ a b c d e f #阿蘇引揚及回航pp.25-28『第五節 令達及ヒ訓示』
- ^ #阿蘇周防津軽丹後肥前相模p.2『旅順口港内沈没戰利軍艦破損箇所詳細圖 壹等巡洋艦阿蘇(「バヤーン」)』
- ^ 小野圭司. “明治末期の軍事支出と財政・金融-戦時・戦後財政と転位効果の考察-”. 防衛研究所. 2023年6月11日閲覧。
- ^ #日露戦役海軍写真集(1)コマ26『旅順港内の沈没艦引揚後の光景』
- ^ #日露戦役海軍写真集(1)コマ38『旅順沈没の巡洋艦バヤーン(阿蘇)の排水』
- ^ a b c #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.71『阿蘇(あそ) 艦種巡洋艦二等 二檣(信號用) 艦名考山名なり、肥後國阿蘇嶽に採る、此山は肥後國阿蘇郡の中央に在る活火山なり、標高5,577尺。艦歴舊露國軍艦、原名「バヤーン」、明治33年佛國「ラセーヌ」に於て進水。明治36年12月2日旅順に回航、同37年2月日露開戰後太平洋艦隊として旅順にありて活動し、其の高速力は我が驅逐隊の最も悩む所となる、同37年7月27日機雷に觸れ大損傷を蒙り、以來旅順港内に蟄居し出でず。復た後ち港内に於て破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「阿蘇」と命名。大正3年乃至9年戰役從軍:同9年敷設艦に編入。―要目―(略)起工 /進水 明治33-5-12/竣工 同35/建造所 佛國セーヌ』(註:実際は6月12日進水)
- ^ 「進水、命名、艦船籍、類別、等級 pp.19-23」 アジア歴史資料センター Ref.C06091630000 『明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号』
- ^ Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik", p. 73
- ^ グレゴリオ暦、以下同じ
- ^ a b c Anthony J. Watts, The Imperial Russian Navy, p. 99
- ^ Conway's All the World's Fighting Ships 1860–1905, p. 190
- ^ a b c d Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik", p. 78
- ^ #阿蘇引揚及回航pp.1-2『第八章 阿蘇(元「バヤーン」)引揚及ヒ囘航 第一節損害程度及ヒ沈没原因』
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』18-22ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』5-6、26-28ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』28ページ
- ^ ピョートル・オレンダー『日露海戦1905 旅順編』27ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』55-57ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』57ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』70ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』70-72ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』73ページ
- ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』73-74ページ
- ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』74ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』75-80ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』123-125、127-129ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』138-139ページ
- ^ a b c 真鍋重忠『日露旅順海戦史』139ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』139-140ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』140ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』236-237ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』242ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』247、250ページ
- ^ a b c 真鍋重忠『日露旅順海戦史』252ページ
- ^ #日露戦役海軍写真集(1)コマ40『旅順沈没の巡洋艦バヤーン(阿蘇)の破損状態(其二) 圖は後甲板にて、八尹旋回砲は露人自ら爆發破壊したるもの。又甲板上の大破損は、後部右舷側水線下に於て開城の際露人が自ら加へたる大爆發の爲に生じたる損所なり』
- ^ #旅順要塞戦写真コマ94『東港内ニ爆沈セル巡洋艦「バヤーン」其ノ右舷ヲ望ム』
- ^ a b c d #収容艦船概要p.2『五、装甲巡洋艦「バヤーン」(排水量七,八〇〇噸、三十八年五月二十五日大連灣防備隊員ニテ引揚箸手、翌六月二十四日浮揚、同月八月二十二日阿蘇ト命名セラル同月二十日旅順口發、大連灣ニ於テ修理箇所點檢ノ後チ同二十三日出港、同二十八日舞鶴箸、囘航委員長ハ海軍大佐島令次郎、曳航艦ハ鎭遠、通信艦ハ驅逐艦霞ナリ)』
- ^ #阿蘇引揚及回航pp.4-7『第二節 引揚作業』
- ^ #阿蘇引揚及回航pp.4-5『(略)是ニ於テ坂本司令官ハ「バヤーン」引揚事業ノ第一箸手トシテ、其ノ沈入部ヲ潜水工ニ精査セシメタリ(以下略)』
- ^ 明治38年6月26日官報第6595号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ16『○戰利艦ノ浮揚 旅順口港内戰利艦ノ浮揚ニ關シ一昨二十四日接手シタル旅順口鎭守府司令長官柴山矢八ノ報告左ノ如シ(海軍省)巡洋艦「バヤーン」(排水量七,七二六 速力二一)本日無滞浮上レリ』
- ^ 「明治38年 達 完/8月 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070053200 『達百十一號 戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 明治三十八年八月二十二日 海軍大臣 男爵山本権兵衛 戰艦「ペレスウエート」相模|戰艦「ポルタワ」丹後|一等巡洋艦「バヤーン」阿蘇|二等巡洋艦「ワリヤーグ」宗谷|二等巡洋艦「パルラダ」津輕』
- ^ #阿蘇引揚及回航pp.16-17『第四節 内地囘航』
- ^ a b #阿蘇引揚及回航pp.17-25『第二期「バヤーン」囘航方案』
- ^ 「明治38年 達 完/8月 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C12070053200 『達百十四號 軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ 明治三十八年八月二十七日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』
- ^ a b #帝国軍艦帖コマ79-80『一等巡洋艦阿蘇(舊名バヤーン) 一、進水年月日 明治三十三年/一、排水量 七千九百九十五噸/一、馬力 一萬七百廿八馬力/一、速力 二十一節/一、主砲 八吋砲二門、六吋砲八門/一、建造地及建造所 佛國ラ.セーン會社/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項/一、日露戰爭に参加したる際重要なる事項 當時露國東洋艦隊に属し旅順に在りて屡我艦隊と交戰し又其快速を以て常に我驅逐隊の封鎖勤務を妨害せしが遂に陸上攻圍軍の巨砲に依り他の諸艦と共に港内に於て撃沈されたるものにして旅順開城後之を引揚げ我海軍の手に収めたるものなり/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 當時恰も練習艦隊に属し直接戰闘に参加すること無かりしも遠洋航海航路附近警備の任務に服したり/一、其他特に重要なる事項 本艦は同じく戰利艦たる宗谷と共に練習艦隊として遠洋航海に從事せしこと四回に及び此間幾百の海軍将校を育成したるは特筆すべきことなりとす 以上』
- ^ a b c d #写真日本の軍艦第14巻26頁『敷設艦誕生までの経緯』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.58『大正九年四月一日(達三八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦一等ノ欄「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル|海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル|巡洋艦ノ欄ニ左ノ如ク加フ |航空母艦| |若宮|-|水雷母艦| |韓崎、駒橋|-|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力』
- ^ 「大正9年 達 完/9月 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070077000 『達百三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎』
- ^ a b #日本補助艦艇物語43-45頁『わが敷設艦の概要』
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)p.67『昭和六年四月一日(内令五三)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ部巡洋艦ノ項中『|利根』及「筑摩、」ヲ、航空母艦ノ項中「若宮、」ヲ、敷設艦ノ項中「阿蘇、」ヲ削ル』
- ^ a b c d 「昭和6年4月1日(水)海軍公報(部内限)第992号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070330200 『官房第一〇六七號 當分ノ間除籍艦ヲ左ノ通假稱シ部内限之ヲ使用ス 昭和六年四月一日 海軍大臣|舊軍艦利根ヲ廃艦二號トス 舊軍艦筑摩ヲ廃艦三號トス 舊軍艦阿蘇ヲ廢艦第四號トス』
- ^ #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.18『沖島|敷設艦|117.80|15.52|5.07|4,400|20.0|播磨造船所|9-9-27|10-11-15|11-9-30|14c/m…4|(發射管)-|(探照燈)3|「タルビン」2|艦本式4|(推進器)2|9.000』
- ^ 「第559号8.2.8廃艦第2号(旧軍艦利根)曳航準備工事の件」 アジア歴史資料センター Ref.C05022840900
- ^ #廃船4号曳航準備pp.6-7『廃艦第四号(旧軍艦阿蘇)ニ関スル件照會 廃艦第第四号ハ本年度艦砲射撃演習ニ二十糎砲彈ノ標的トシテ使用後更ニ潜水艦魚雷ノ標的トシテ使用ノ内議有…』
- ^ #S0707羽黒(1)p.49『1544|阿蘇曳索ヲ取ル』
- ^ #S0706高雄(2)p.18『1430|羽黒出港(阿蘇曳航)』
- ^ 「昭和7年8月8日(月)海軍公報 第1651号 pp.29-30」 アジア歴史資料センター Ref.C12070333700 『○艦船所在○八月八日午前十時【横須賀】日進▲、山城▲、五十鈴▲、駒林、長門、赤城、愛宕、高雄、摩耶、鳥海、榛名、木曾、春日、(将旗)磐手、八雲/椿、沼風、(司令)朝風、春風、松風、旗風/富士、尻矢、洲崎、神威、青島/(龍驤)|【長浦】厳島/桑、槙、欅、(司令)神風、野風、波風、(司令)羽風、太刀風、帆風、秋風、(司令)漣/呂二〇、呂二一、呂二二、(司令)呂五五、呂五四、呂五六、(司令)呂五九、呂五七、呂五八、(司令)伊二四、伊二三、伊五/(司令)掃五、掃一、掃二、掃三、掃四、掃六|【浦賀】(雷)|【館山】(将旗)金剛、霧島、日向、伊勢、(将旗)那珂、阿武隈、由良、(将旗)夕張、(将旗)迅鯨、(将旗)加賀、鳳翔、(将旗)妙高、那智、足柄、羽黒、(将旗)神通、(将旗)長鯨、(司令)皐月、水無月、長月、文月、(司令)三日月、菊月、望月、夕月、(司令)彌生、如月、睦月、卯月、(司令)沖風、澤風、峯風、矢風、(司令)潮、曙、朧、(司令)朝霧、夕霧、天霧、(司令)敷波、綾波、浦波、(司令)東雲、吹雪、磯波/(司令)伊五五、伊五三、伊五四、(司令)伊六三、伊五九、伊六〇、(司令)伊二、伊一、(司令)伊四、伊三、(司令)伊六四、伊六一、伊六二、能登呂、鳴戸、間宮』
- ^ #S0706日向(2)p.32『0820|伊号53、58、63、潜水艦出港/0825|弥生入港/0830高松宮殿下出船/0838|東雲出動/0900|金剛出動/0905|長鯨出動/0920|弥生出動/0925妙高那智出動』
- ^ #S0707羽黒(1)p.50『1014|曳索ヲ伸シ始ム(阿蘇トノ距離283米)→(34°-32′0 N 139°-56′3E)』
- ^ #S0707羽黒(1)p.50『1302|演習開始(發動)/1326|妙高 初彈發砲/1327|那智 初彈發砲/1340|第一小隊射撃終了』
- ^ #昭和19年8月〜9月秘海軍公報9月(1)p.33、達第二九三號 昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ軍艦三隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十九年九月五日 海軍大臣 三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 軍艦 笠置(カサギ) 呉海軍工廠ニ於テ建造 軍艦 阿蘇(アソ) 川崎重工業株式會社ニ於テ建造 軍艦 生駒(イコマ)
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- ^ 『官報』第1883号、大正7年11月12日。
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参考文献
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関連項目
編集- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 阿蘇山
- 阿蘇神社
- 阿蘇 (空母)
- 標的艦
- 敷設艦
- 機雷敷設艦
- ロベルト・ヴィーレン - 日露戦争時の装甲巡洋艦バヤーンの艦長