パルラーダ (防護巡洋艦)
パルラーダ[2]、パルラダ[3][4][5]、パラーダ[6](ロシア語:Палладаパルラーダまたはパラーダ)は、ロシア帝国海軍のヂアーナ級防護巡洋艦である。 旅順攻囲戦で日本海軍に鹵獲(戦利艦)され、二等巡洋艦「津軽」として再就役した[4]。
パルラーダ | ||
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艦歴 | ||
発注 | ||
起工 | 1897年6月4日 | |
進水 | 1899年8月26日 | |
竣工 | 1901年11月2日露・パルラーダ | |
就役 | 1905年8月22日、日本海軍籍に編入 | |
除籍 | 1922年4月1日 | |
その後 | 1924年5月27日横須賀猿島沖で爆撃標的として撃沈処分 | |
性能諸元 (1920年、津軽) | ||
排水量 | 常備:6,630トン | |
全長 | 121.01m (397ft) | |
全幅 | 16.76m (55ft) | |
吃水 | 6.4m (21ft) | |
機関 | ベルビール式石炭専焼缶24基 直立3気筒3段膨張レシプロ3基 3軸 11,610馬力 | |
速力 | 20.0ノット | |
航続距離 | 不明 | |
燃料 | 石炭 989トン | |
乗員 | 514名 | |
装甲 | ||
兵装 | 40口径安式15cm単装砲 5門 40口径四一式8cm単装砲 10門 麻式6.5mm機銃1挺 4号機雷400個[1] |
概要
編集パルラーダはロシア太平洋艦隊の1艦として日露戦争に従軍するも、旅順攻囲戦で沈没(大破着底)[7]。 旅順要塞陥落時に日本軍によって捕獲[4]。浮揚修理後、大日本帝国海軍に編入され、軍艦「津軽」と命名[3]。 制式な類別は二等巡洋艦[8]。
「津軽」は日本海軍艦艇として活動。1922年(大正11年)4月1日附で敷設艦に類別変更[4]。翌年5月27日、自沈処分。 ロシア海軍時代の艦名『パルラーダ』は、ローマ神話の知恵の女神パラスのロシア語読みである。日本海軍時代の『津軽』の艦名は、「津軽海峡」による[4]。なお、明治天皇に奏聞した候補艦名に「函館」、「春駒」および「勿来」があった[9]。この艦名は日本海軍および海上自衛隊の敷設艦に引き継がれた。
艦歴
編集パルラーダ
編集1899年8月26日[10][11]、8月27日[12]、または8月28日進水[4][13]。1902年竣工[12]
1902年11月13日に戦艦「レトヴィザン」、「ポベーダ」、巡洋艦「ジアーナ」、「ボガツイリ」とともにLibavaより極東へ向けて出発し、1903年5月4日に「パルラーダ」は「レトヴィザン」ともに旅順に到着した[14](または5月5日朝に旅順近くに碇泊[15])。
日露戦争
編集1904年2月9日未明、戦艦「ペトロパヴロフスク」以下「パルラーダ」も含むロシア艦艇が旅順港外に停泊していたところを日本の駆逐隊が襲撃し、「パルラーダ」は被雷した[16]。魚雷は左舷の67mm砲と75mm砲の肋材の間に命中し[17]、石炭庫内で爆発[18]。火災が発生したが、浸水によって鎮火した[19]。爆発で1名が、火傷と窒息で名が死亡した[20]。「パルラーダ」に魚雷を命中させたのは「霞」と思われる[18]。
巡洋艦「ノヴィーク」の修理が優先されたため、「パルラーダ」の入渠は2月22日になった[20]。4月16日に「パルラーダ」は出渠した[21]。
6月23日、戦艦「ツェサレーヴィチ」以下「パルラーダ」も含むロシア艦隊は出港したが、日本艦隊と遭遇すると引き返した[22]。
7月27日、戦艦「レトヴィザン」などとともに大河湾で日本軍陣地を砲撃した[23]。
8月、日本軍は砲台を設置して旅順に対する砲撃を開始する[24]。10月23日までに「パルラーダ」は3度被弾し、10月25日、27日、28日には落下する砲弾で被害を受け、10月31日には再び被弾した[25]。さらに11月1日から11月26日の間にも3発被弾し、11月28日には被弾で死者5名負傷者9名が出た[26]。
12月5日に203高地の左右の頂上が日本軍に占領されると、そこに観測所を設置した日本軍の砲撃で港内のロシア艦艇は撃沈されていく[27]。「パルラーダ」は12月7日に11インチ砲弾4発が命中[28]。左舷の炭庫を砲弾が貫通してそこから浸水し、艦の大半が海中に没した[28]。
津軽
編集1905年(明治38年)1月1日、旅順港開城により、同港を占領した日本軍により捕獲[4]。 7月4日、日本海軍は本艦の浮揚作業に着手する[29][30]。 8月12日、浮揚成功[30][31]。 8月22日、日本海軍籍に編入[32]。軍艦「津軽」となる[3][33]。二等巡洋艦に類別[8][34]。佐世保鎮守府籍[32]。
1906年(明治39年)6月25日、津軽は海防艦鎮遠に曳航され、駆逐艦夕暮護衛下で旅順出発[29][35]。6月29日、3隻(津軽、鎮遠、夕暮)は佐世保に到着[29][35]。1908年(明治41年)、修理完了。
1911年(明治44年)以降、機関術訓練艦として使用される。1914年(大正3年)には第一次世界大戦に従軍。 1915年(大正4年)から1918年(大正7年)に大改修、同時に敷設艦に改造。1920年(大正9年)4月1日、日本海軍は3隻(阿蘇、津軽、勝力)を敷設艦に類別する[36][37]。 1922年(大正11年)4月1日、艦籍を除籍[4][38]。 各艦と共に艦艇類別等級表からも削除[39][40]。本艦は雑役船となる[41]。
1924年(大正13年)3月18日、横須賀鎮守府司令長官堀内三郎中将は、本艦の沈没処理を上申[42]、受理される。廃船後の5月27日、猿島付近で津軽は自沈処分となった[43]。
艦長
編集※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 津軽
- 森義臣 大佐:1910年4月9日 - 6月25日
- 臼井幹蔵 大佐:1910年6月25日 - 1910年9月28日
- 田所広海 大佐:1910年9月28日 - 1911年5月23日
- 千坂智次郎 大佐:1911年5月23日 - 1912年3月1日
- 吉島重太郎 大佐:1912年3月1日 - 1913年4月1日
- 南里団一 大佐:1913年11月5日 - 1914年8月18日
- 佐野常羽 大佐:1914年12月1日 - 1916年4月4日
- 伊集院俊 大佐:1916年4月4日 - 6月8日
- 原口房太郎 大佐:1916年6月8日 - 12月1日
- 四竈孝輔 大佐:1916年12月1日 - 1917年2月21日
- 大見丙子郎 大佐:1917年2月21日 - 12月1日
- 橋本虎六 大佐:1917年12月1日[44] - 1918年7月23日[45]
- (心得)迎邦一 中佐:1918年7月23日[45] - 12月1日[46]
- 迎邦一 大佐:1918年12月1日[46] - 1919年11月20日[47]
- 山崎正策 大佐:1919年12月1日[48] - 1920年7月26日[49]
- 三上良忠 大佐:1920年7月26日 - 1921年11月26日
- (兼)吉富新八 大佐:1921年11月26日[50] -
同型艦
編集後日談
編集津軽撃沈から2年後の1926年に、海底に沈んだ破片類が操業の邪魔になると漁業組合が横須賀鎮守府に訴えたため鎮守府は津軽の艦体を横須賀市に払い下げている[要出典]。 その後1932年に日本潜水協会が横須賀市に対して艦体引き上げのための有償払い下げを出願し、7月1日の市議会会議で潜水協会への津軽艦体の払い下げが決定する[要出典]。だがこの議決を巡って横須賀市議9名が潜水協会からの贈収賄を受けており、翌月に横浜検事局が贈収賄の摘発を行った『津軽疑獄事件』が発生した[要出典]。
脚注
編集- ^ 兵装は『世界の艦船 増刊第47集』による。『日本海軍史 第7巻』p180によると「40口径15.2cm単装砲 7門、40口径7.6cm単装砲 12門、魚雷発射管5門」。
- ^ 『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社、1997年による表記。
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰利軍艦相摸肥前命名ノ件 明治三十八年八月二十二日(達一一一)戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』
- ^ a b c d e f g h i #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.71『津輕(つがる) 艦種二等巡洋艦 二檣(信號用) 艦名考海峡名なり、津輕海峡に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「パルラダ」、明治32年露國「グレルヌイ」島海軍工廠にて進水。同37年2月日露戰役の劈頭、我が驅逐隊襲撃に於て先づ傷き、後ち8月10日の海戰に参加、其の後旅順港内に破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「津輕」と命名。大正9年敷設艦に編入。同11年4月1日除籍。 ―要目― 長 416呎/幅 55呎/喫水 21.0呎/排水量 6,630噸/機關 横置三汽筒三聯成汽罐3基、ベルビル罐24臺/馬力 11,600/速力 20/乗組人員 532/船材 鋼(シーズド式)/兵装 15栂砲8 8栂砲12 機砲2 發射管3|起工 明治29/進水 同32-8-28/竣工 同35|建造所 露國グレルヌイ海軍工廠』
- ^ #日露戦役海軍写真集(4)コマ36『旅順沈没巡洋艦パルラダ(津輕) THE CRUISER"Pallada(Tsugaru)"THE SUNKEN WARSHIP.(圖は艦の最上甲板左舷前部にして、艦橋下を透して見ゆる陸上の建築物に對照すれば、如何に本艦の右舷に傾きあるやを知るべし。)』
- ^ 稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』東洋書店、2007年による表記
- ^ #阿蘇周防津軽丹後肥前相模p.1『旅順口港内沈没戰利軍艦破損箇所詳細圖 貳等巡洋艦津輕(「パルラーダ」)』
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)p.52『◎明治三十八年八月二十七日(達一一四)軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ』
- ^ #明治38年進水命名pp.21-23『二等巡洋艦パルラダ 津輕
函舘、春駒、勿来』 - ^ グレゴリオ暦、以下同じ
- ^ Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, p. 22
- ^ a b Anthony J. Watts, The Imperial Russian Navy, p. 92
- ^ #津軽引揚及回航pp.1-2『第九章津輕(元「パルヲーダ」)引揚及ヒ回航 第一節 損害程度及ヒ沈没原因』
- ^ Stephen McLaughlin, "The Retvizan", p. 61
- ^ Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, pp. 94, 96
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』18-22ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』22ページ
- ^ a b Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, p. 99
- ^ Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, pp. 99-100
- ^ a b Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, p. 100
- ^ Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, p. 101
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』123-125、127-129ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』139-140ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』236-237ページ
- ^ Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, p. 115
- ^ Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, pp. 115-116
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』247、250ページ
- ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』252ページ
- ^ a b c #収容艦船概要p.2『六、巡洋艦「パルヲーダ」(排水量六,六三〇噸、三十八年七月四日大連灣防備隊引揚箸手、翌八月十二日浮揚、同月二十二日津輕ト命名セラル三十九年六月二十五日旅順口發、同二十九日佐世保箸、囘航委員長ハ海軍中佐山口九十郎、曳航艦ハ鎭遠、通信艦ハ驅逐艦夕暮ナリ)』
- ^ a b #津軽引揚及回航pp.4-7『第二節 引揚作業』
- ^ 明治38年8月14日官報第6637号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○戰利艦ノ浮揚 旅順口内戰利艦ノ浮揚ニ關シ一昨十二日接手シタル旅順口鎭守府司令長官柴山矢八ノ報告左ノ如シ(海軍省)巡洋艦「パルラダ」(六千七百三十一噸)ハ昨日(十一日)ヨリ排水ニ箸手セシニ諸事支障ナク今朝六時二十五分全ク浮揚セリ』
- ^ a b #津軽引揚及回航pp.24-26『第五節 令達』
- ^ 「明治38年 達 完/8月 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070053200 『達百十一號 戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 明治三十八年八月二十二日 海軍大臣 男爵山本権兵衛 戰艦「ペレスウエート」相模|戰艦「ポルタワ」丹後|一等巡洋艦「バヤーン」阿蘇|二等巡洋艦「ワリヤーグ」宗谷|二等巡洋艦「パルラダ」津輕』
- ^ 「明治38年 達 完/8月 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C12070053200 『達百十四號 軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ 明治三十八年八月二十七日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』
- ^ a b #津軽引揚及回航pp.23-24『第四節 内地ヘ囘航』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.58『大正九年四月一日(達三八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦一等ノ欄「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル|海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル|巡洋艦ノ欄ニ左ノ如ク加フ |航空母艦| |若宮|-|水雷母艦| |韓崎、駒橋|-|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力』
- ^ 「大正9年 達 完/9月 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070077000 『達百三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎』
- ^ #達大正11年4月(1)pp.1-2『達第四十七號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津輕/軍艦 橋立/軍艦 武藏|呉鎮守府在籍 軍艦 周防/軍艦 千代田/軍艦 大和|佐世保鎮守府在籍 軍艦 沖島/軍艦 見島 右帝國軍艦ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲/驅逐艦 不知火|呉鎮守府在籍 驅逐艦 朝潮/驅逐艦 白雲/驅逐艦 村雨/驅逐艦 朝霧/驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第六十七號水雷艇/第六十八號水雷艇/第七十号水雷艇/第七十一號水雷艇|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 雁/水雷艇 蒼鷹/水雷艇 鴿/水雷艇 燕 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.59『大正十一年四月一日(達四八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
- ^ #達大正11年4月(1)pp.2-3『達第四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎|軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
- ^ 「大正11年4月1日(土)海軍公報(部内限)第六百十號 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070284800 『○令達 官房第一一七五號 舊軍艦周防、津輕、沖島、橋立、舊驅逐艦陽炎、舊水雷艇燕、雁、蒼鷹、鴿、第六十七號、第六十八號、第七十號、第七十一號各水雷艇及舊特務艇叢雲、夕霧ハ之ヲ雑役船ニ編入シ其ノ種類、船名、公稱番號及所属當左ノ通定ム 大正十一年四月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|種類:(追テ之ヲ定ム)|艦名(公稱番號):津輕(舊軍艦津輕)|所属:横須賀海軍港務部保管船|』
- ^ #津軽処分pp.45-46『大正十三年三月十八日 横須賀鎮守府司令長官 堀内三郎 海軍大臣 村上格一殿 津輕處分ニ關スル件|軍艦津輕ハ将来軍事上ニ使用ノ御意向無之旨聞候ニ就テハ此際之ヲ本府ニ於テ左記位置ニ沈置シ航路標識ニ使用スルコトニ致度右上申ス 左記 位置ハ附圖ニ示ス』
- ^ #写真及活動写真(5)p.7『大正十三年六月二十日 映画檢閲願 去五月廿七日横須賀港内ニ於テ撮影御許可相成候廃艦津軽爆沈実況映画曩ニ鎮守府及塞要司令部ノ御檢閲相成候モ尚御省ノ御檢閲相成申度此段及御願候也 東京市京橋區釆女町二十五番地 松竹キネマ株式會社 海軍省副官部御中』
- ^ 『官報』第1601号、大正6年12月3日。
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参考文献
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関連項目
編集- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 津軽 [II] (敷設艦)
- つがる (敷設艦)