長連頼

日本の江戸時代前期の武士。加賀藩年寄長連龍次男で、長家23代当主(加賀八家長氏3代当主)。従五位下安芸守

長 連頼(ちょう つらより)は、江戸時代初期の加賀藩家老長連龍の次男。長氏23代当主。兄に長好連。室は香集院(不破光政娘)。子に長元連

 
長 連頼
時代 江戸時代初期
生誕 慶長9年11月9日1604年12月29日
死没 寛文11年3月24日1671年5月3日[1]
改名 長松(幼名[1]→連頼
別名 仮名:左衛門二郎、左兵衛、九郎左衛門[1]
戒名 乾徳院鉄山良剛老居士
墓所 東嶺寺石川県七尾市
官位 安芸守
幕府 江戸幕府
主君 前田利常光高綱紀
加賀藩
氏族 長氏
父母 父:長連龍、母:窪田将監
兄弟 好連連頼、豕子(浅賀作左衛門室)、栗(南嶺院、前田利常側室)、竹(前田直知室)
室:香集院不破光政娘)
元連、犬(光照院、前田利豊の子の前田貞里室)、村井長朝
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経歴

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家督相続

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慶長9年(1604年)、前田家の家臣・長連龍の次男として誕生する。母は朝倉義景家臣・窪田将監の娘。

元和5年(1619年)に父が死去し、すでに兄も死去していたため、家督と能登鹿島半郡ほか加賀国能登国内3万3千石を継ぐ[1]。鹿島半郡は、織田信長から父の連龍が受領した地で、前田氏の家臣となってからも、本来なら他の家臣が分散して知行地を持っているのとは別格に、金沢のほかにも知行地の鹿島郡田鶴浜にも本拠を持っており、藩主もこれに手をつけることができなかった。

鹿島半郡の検地騒動

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そんな中、在地の家臣の浦野孫右衛門信里と金沢の家臣の加藤采女の対立があり、浦野が新田開発をしそれを私有しているという噂が流れた。そこで寛文5年(1665年)2月に新田の検地を実施しようとしたが、これを加藤采女派の策謀と思った浦野派は、同年3月27日、検地反対の旨の書面「検地御詫」を連頼の子の元連を仲介して提出した。9月には検地が一部行われたが、浦野は元連と連携し、十村頭園田道閑ら有力農民を扇動して検地の阻止に出て、検地をすることができなくなった。

これを重く見た連頼は、単独での処理はできないと判断し、寛文7年(1667年)2月15日、本多政長横山忠次前田対馬奥村因幡今枝民部ら藩の重臣を通じて、浦野派の罪状を書いた覚書を加賀藩に提出した。藩主・前田綱紀は、鹿島半郡を直接統治する機会と考えて介入し、浦野孫右衛門、兵庫父子ら一派を逮捕した。このことを幕府保科正之(綱紀の舅)に相談し、寛文7年(1667年)に浦野父子ら一派の首謀者は切腹、切腹した者の男子は幼児であっても死刑に処された。協力した有力農民も一味徒党として捕らえられ、園田は磔、3人の子は斬首刑となるなど、軒並み死刑となった。

事件は長家の家中取り締まり不行き届となり、罪は子の元連にも及び、剃髪のうえ蟄居となり、その子の千松(のちの長尚連)が後継者となるが、検地の場合は藩の命令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなどの条件がつけられた。この事件を浦野事件浦野騒動)という[1]

その後

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寛文11年(1671年)に死去し、田鶴浜の東嶺寺に葬られた[1]。享年68(満66歳没)。戒名は乾徳院鉄山良剛老居士。

なお、孫の尚連(10歳)が当主になると、前田綱紀は鹿島半郡を取り上げ、代わりに石高に見合う米を給することになった。これにより、長家の特権が完全に潰えた。その後、長家は高連(尚連の養子)、善連連起連愛連弘本多政礼次男)と3万余石の家老のまま、幕末に続いている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 長連三 1893, p.9

参考文献

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  • 石川県編『石川県史 第二編』
  • 『加賀藩史料 第二編』「天寛日記」、「徳川実紀
  • 『加賀藩史料 第三編』「能州郡方旧記
  • 『加賀藩史料 第四編』「長家譜
  • 長連三『長氏家譜大要』、1893年
  • 若林喜三郎『加賀能登の歴史』講談社、1978年
  • 伊東多三郎『近世史の研究 第五巻』吉川弘文館、1984年
  • 原昭午『中世・近世の国家と社会 浦野一件について—長家と百姓』東京大学出版会、1986年
  • 家臣人名事典編纂委員会『三百藩家臣人名事典 第三巻』新人物往来社、1988年
  • 金沢市史編さん委員会『金沢市史 通史編2(近世)』金沢市、2005年