横山忠次
日本の江戸時代前期~中期の武士。加賀藩家老横山康玄の子で、加賀八家横山氏4代当主
横山 忠次(よこやま ただつぐ、寛永2年(1625年) - 延宝7年6月13日(1679年7月20日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第4代当主[1]。
父は加賀藩家老横山康玄。母は今枝直恒の娘。兄弟は横山康次、奥村庸礼室、横山武右衛門室。正室は岡山藩家老日置忠治の養女(実父は日置忠隆)。子は横山亀松(早世)、横山玄位、横山任風、横山忠通(早世)、奥村時成室、奥村履虎室。幼名は三郎。通称は左衛門。
生涯
編集寛永2年(1625年)、加賀藩家老横山康玄の子として金沢に生まれる。正保2年(1645年)、父康玄が病死、祖父横山長知の隠居により家督と2万4000石の知行を相続する。正保4年(1647年)、藩主前田綱紀に3000石を加増され、年寄、人持組頭となる。万治元年(1658年)小松城代となる。翌年前田直之と交代する。万治3年(1660年)、藩主綱紀の命で江戸に下向し勤務する。延宝7年(1679年)6月13日、病により、京都に療養に向かう旅の途中で死去する。享年55。墓所は石川県金沢市野田山墓地。家督は次男の玄位が相続した。
脚注
編集- ^ 「加賀八家「殿様」たちの末裔 藩主支えた絆 旧男爵家の誇りは今も」『月刊北国アクタス』2014年8月号
参考文献
編集- 東京大学史料編纂所「横山家譜」