哲学上の未解決問題
人によって、感じ取られる質感が異なることはあり得るのか。

逆転クオリア(ぎゃくてんクオリア、英:Inverted qualia)は心の哲学で議論される思考実験の一つ。同じ物理的刺激に対し、異なる質的経験(クオリア)が体験されている可能性を考える思考実験である。逆転スペクトル(ぎゃくてんスペクトル、英:Inverted spectrum)とも呼ばれる。色覚が入れ替わっている例が代表的例として論じられるが、他の感覚様相(聴覚痛覚)の場合でも論じられる。

逆転クオリア

概要

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この思考実験の内容は次のようなものである。

同じ赤色に相当する周波数を受け取っている異なる人間は、同じ質感を経験しているのか?ひょっとすると全く違う質感を経験しているのではないか?

たとえばあなたが熟れたトマトを見ている時に感じる色(赤色)、これが別の人にはまったく違う質感で感じられているかもしれない。

歴史

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こうした形の議論は、イギリスの哲学者ジョン・ロック1632年 - 1704年)が1690年に発表した『人間知性論』(英: An Essay concerning Human Understanding)の中ですでに見られる[1]。ロックは物体の寸法運動(これを一次性質と呼んだ)をどれだけ詳しく調べても、そこから得られる(二次性質と呼んだ)などについての知識は得られない、ということを論じた。現代哲学においては主にシドニー・シューメーカー[2]ネド・ブロック[3]の影響で有名となった[4]

応答

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この思考実験には様々な応答がある。以下、主なものをいくつか列挙する。

分からないから無意味
これは日常的な意味でもっとも普通と言える反応である。仮にクオリアの反転と言える事態が可能であり、そしてそれが現に起きていたとしても、それは行動的にも言語的にも判別できない。故にそうしたことを問うても無意味である。
特定の質感だけを選択的に反転させるのは困難(なので反転は不可能)
次にある反応として、質感は単独で独立してあるものではなく、他の質感と関係性を持ち全体の中での相対的な位置づけと言えるようなものがあるため、単純に特定の質感同士での反転を想定することは難しいだろう、という反応がある。色覚の反転の場合で言うと、色相だけを反転させると彩度明度に関して非対称な入れ替えが行われることになり、そのため行動的・機能的に違いが現れる。そのため「誰にも分からないが質感だけが反転している」という思考実験が想定しているような事態は起き得ないだろうとする反応がある。

派生

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クオリアの入れ替えの議論は多くの派生議論を持つ。入れ替えではなく特定の質感だけが欠如することを想定する議論であるクオリア欠如(英:Absent qualia)、クオリアが完全に欠落した存在である哲学的ゾンビ(英:Philosopher's zombie)の議論などがある。

脚注

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  1. ^ ジョン・ロック『人間知性論』 第2巻32章15 「たとえある人間の青の観念が他の人間の観念と違っても〔偽ではない〕」より(大槻春彦[訳] 岩波文庫 4分冊の第3冊目 pp. 56-58 から引用 ISBN 4-00-340073-9
    ジョン・ロックはすみれ(violet)とせんじゅぎく(marigold)の色を例にして、質感の個人間での相違の可能性を論じた。
    また、かりにもし私たちの器官の構成の違いで同じ対象がいろいろな人の心に違う観念を同時に産むように定められたとしても、たとえばすみれが一人の人間の心にその目によって産んだ観念は、せんじゅぎくが他の人間の心に産んだのと同じだったり、その逆だったりだとしても、私たちの単純観念に虚偽のそしりはあびせられないだろう。なぜなら、一人の人間の心が他の人間の身体の中へ入って、そうした器官がどんな現象態を産むか、これは知覚できないから、この〔人々が違う観念を産む〕点を知ることはけっしてできず、したがって、これによって観念も名まえも混同されることはまったくなかったろうし、どちらにもなんの虚偽もなかっただろう。というのは、およそすみれの組織をもつ事物はすべてその一人の人間のと呼ぶ観念を恒常的に産むし、せんじゅぎくの組織をもつ事物はすべてその一人の人間のと呼ぶ観念を恒常的に産むから、それら〔すみれとせんじゅぎく〕の現象態がその人の心でどうであっても〔たとえ他の人たちと違っても、〕その人はそれらの現象態によって〔すみれとせんじゅぎくという〕事物を自分に役だつように規則正しく区別でき、青と黄という名まえで表示される区別を理解できたり意味表示できたりするのであって、その点は、その人の心にあるそれら二つの花から受けた現象態ないし観念が他の人たちの心の観念と性格に同じだとしたときと、かわりなかったろう。〔もっとも、〕そうはいうものの、私は、ある対象が違う人々の心に産む可感的観念はごく近くて識別できないほど似よっているのがもっとも普通だと、たいへん考えがちである。この説には理由をたくさん呈示できようと私は思う。が、これは私の当面の務めの外にあるから、そうした理由で読者を煩わさないだろう。ただ読者の留意を促すが、かりにもし〔同じ対象の観念が違う人で違うという〕反対の想定を証明できたとしても、私たちの真知の進歩にも人生の便益にもほとんど役だたず、したがって、これを検討する労を取るには及ばないのである。 — ジョン・ロック人間知性論』(1690年) 第2巻32章15 「たとえある人間の青の観念が他の人間の観念と違っても〔偽ではない〕」
  2. ^ Shoemaker, S., 1982, “The Inverted Spectrum”, Journal of Philosophy, 79: 357-81
  3. ^ Block, N., 1990, “Inverted Earth”, Philosophical Perspectives, 4: 53-79.
  4. ^ Byrne, Alex, "Inverted Qualia", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2010 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <http://plato.stanford.edu/archives/spr2010/entries/qualia-inverted/>.

参考文献

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  • 村田純一 『「わたし」を探険する』 双書 哲学塾 岩波書店 (2007年) ISBN 978-4000281546 pp.107-150 「色彩をめぐる諸問題‐わたしの見ている色はあなたと同じだろうか?」
日本語のオープンアクセス文献
  • 塚原典央「反転スペクトルのパラドックス」『福井県立大学論集』第30巻、福井県立大学、2008年、21-31頁、2023年5月8日閲覧 
  • 太田紘史、山口尚「<書評>反機能主義者であるとはどのようなことか」『Contemporary and Applied Philosophy』第2巻、応用哲学会、2009年7月、1001-1017頁、doi:10.14989/141960hdl:2433/141960ISSN 1883-43292023年5月8日閲覧 

関連項目

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外部リンク

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