近衛尚通
1472-1544, 戦国時代の公卿。近衛政家の子。官位は従一位・関白、太政大臣、准三宮。
近衛 尚通(このえ ひさみち)は、戦国時代の公卿。太政大臣・近衛政家の子。官位は従一位・関白、太政大臣、准三宮。近衛家15代当主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明4年10月12日(1472年11月12日) |
死没 | 天文13年8月26日(1544年9月13日) |
改名 | 尚通→大証(法名) |
諡号 | 後法成寺 |
官位 | 従一位、関白、太政大臣、准三宮 |
主君 | 後土御門天皇→後柏原天皇→後奈良天皇 |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛政家、母:北小路俊子[1] |
兄弟 | 尚通、良誉、大聖院、女子 |
妻 | 正室:維子(徳大寺実淳の娘) |
子 | 稙家、義俊(禅意)、覚誉、道増、久我晴通、徳大寺公維[2]、花屋理春、慶寿院(足利義晴室)、近衛殿(北条氏綱室) |
経歴
編集文明14年(1482年)に元服、室町幕府9代将軍・足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る。
延徳2年(1490年)に右大臣に就任、以降は関白に二度就く。永正11年(1514年)に太政大臣、同16年(1519年)に准三宮となった。
天文13年(1544年)8月26日、薨去。享年73。
人物
編集尚通は公家や連歌師、武士に近衛邸を開放し、学問や文芸の普及にも努めた文化人である。若年のころ、連歌師・宗祇から古今伝授を受けていた[3]。
日記『後法成寺関白記』(近衛尚通公記)を残した。永正5年4月16日(1508年5月15日)の条には、細川政元の死後に跡目を争う細川澄元と細川高国の争いを中国の春秋戦国時代に例え、「戦国の世の時の如し」と評す[3]。戦国時代の呼称はこれに由来している。