春秋戦国時代

中国史の時代区分

春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)は、中国史において紀元前770年が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある。

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西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国

概略

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紀元前403年の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする解釈があるが、秦が統一した領域は周が影響力を及ぼした領域よりも広い。他にも南のは元々は自ら王号を称える自立した国であった。また東・北についてもなどの国により領域が拡大された。

周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑(村落)が国内に点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。

政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。

なお、春秋戦国時代の名称は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。

時代区分

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春秋時代の終わり・戦国時代の始まりについては諸説ある。の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。この他に、『春秋』は哀公十四年(紀元前481年)に「獲麟」(麒麟を獲た)の記述で終了するので、これをもって春秋時代の終わりとする説、『史記』の『六国年表』が始まる紀元前476年とする説などがある。主要な7説を列挙すると、

  1. 紀元前481年(周の敬王39年)
  2. 紀元前476年(周の敬王44年[注釈 2]
    • 史記の『六国年表』の記載が始まった年[1]
  3. 紀元前475年(周の元王元年[注釈 3]
    • 前年に周の敬王が在位44年で死去し、周の元王元年を戦国時代の始めとする[2]
  4. 紀元前468年(周の貞定王元年)
    • 林春溥の《戦国編年》、黄式三の《周季編略》、楊寛の《戦国史料編年輯証》の記載が始まった年。また、《春秋左氏伝》の記述が終わった年。
  5. 紀元前453年(周の貞定王16年)
  6. 紀元前441年(周の哀王元年)
    • 朔雪寒が《孫子兵法論正》で提言した説[3]
  7. 紀元前403年(周の威烈王23年)
    • 三晋が周により正式に諸侯に認められた年。一般的にはこの年からを戦国時代とする。

春秋時代には周王は政治の実権は握っていなかったが、依然として精神面の中心であり、諸侯は王に次ぐ2番目の地位たる覇者となろうとしていた。それに対して戦国時代は、諸侯自らがそれぞれ「王」を称して争うようになり、残っていた周王の権威は殆ど無くなった。

主要国家

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春秋時代の諸侯の勢力図
姓氏 領域 国都 爵位 存在年 初代君主 最後の君主 滅国者
周朝
東周 姫氏 名義上、全国を統治。
実際は首都洛邑(河南省洛陽市)の周囲の狭小地区
洛邑 天子 前770年[4] - 前256年[注釈 4][5][4] 平王紀元前770年 - 紀元前720年 赧王紀元前314年 - 紀元前256年 秦国
東周の滅亡
戦国七雄
嬴姓趙氏 陝西省中南部、甘粛省東部、四川省重慶市河南省西部、湖北省西部など。前221年に中華を統一した[6][7] 秦邑・汧邑・汧渭の会平陽中国語版[8][8]櫟陽[8]咸陽中国語版[8] 仲→(前770年受封)→王(前325年自称[4])→帝(前288年に西帝自称[9])→王(復称)→皇帝(前221年全国統一後改称) 前770年 - 前206年 襄公紀元前777年 - 紀元前766年 秦王政紀元前246年 - 紀元前210年 西楚
姞姓 遼寧省南部、北京市天津市河北省北部 [10](副都:下都[10] →王(前323年自称[4] 前1046年 - 前221年[注釈 5][11] 燕侯克召公奭 燕王喜[11]紀元前254年[11] - 紀元前222年[11] [11]
燕の滅亡[11]
羋姓熊氏 湖北省湖南省北部、安徽省西部、江西省西部、河南省南部、江蘇省浙江省 丹陽[12][12]寿春[12] →王(前704年自称[4] 殷代 - 前223年[13] 鬻熊中国語版 負芻[14]紀元前227年 - 紀元前223年[14][注釈 6] [13]
楚の滅亡[13]
嬴姓趙氏 河北省西部、山西省北部、内モンゴル自治区南部 邯鄲[16] 侯→王(前326年自称[17] 前403年[注釈 7] - 前222年[注釈 8][18] 列侯紀元前408年 - 紀元前400年 幽繆王紀元前235年 - 紀元前228年[19][注釈 9] [18]
趙の滅亡[18]
姫姓魏氏 山西省南部、河南省北部、陝西省東部、河北省の一部 安邑[20]大梁[20] 侯→王(前344年自称) 前403年[注釈 7] - 前225年[21] 文侯紀元前445年 - 紀元前396年 王假[22]紀元前227年 - 紀元前225年 [21]
魏の滅亡[21]
姫姓韓氏 河南省 陽翟新鄭[20] 侯→王(前324年自称[23] 前403年[注釈 7] - 前230年[23] 景侯紀元前408年 - 紀元前400年 王安[23]紀元前238年[23] - 紀元前230年[23] [23]
韓の滅亡[23]
(田斉) 嬀姓田氏 山東省東部、河北省南部 臨淄[24] 侯→王(前334年自称[4])→帝[9]→王 前386年[25] - 前221年[9] 太公紀元前386年 - 紀元前385年 王建紀元前265年 - 紀元前221年[9] [9]
斉の滅亡[9]
その他諸侯国
姓氏 領域 爵位 存在年 滅国者
(姜斉) 姜姓呂氏 山東省東部、河北省南部 前1046年 - 前379年[25][26] 田斉
姫姓魯氏 山東省曲阜市 前1046年 - 前256年
姫姓衛氏 河南省淇県濮陽市 侯→君(前330年改称) 前1040年 - 前209年
子姓宋氏、子姓戴氏 河南省商丘市通許県 →王(前323年自称) 前1040年 - 前286年 田斉、魏、楚(宋の滅亡
姫姓 山西省、河南省北部、陝西省東部、河北省東部 前1033年 - 前349年 韓、趙、魏
姒姓 浙江省の中心、山東省南部、福建省北部 子→王(自称) 前2032年 - 前222年
姫姓鄭氏 河南省新鄭市 前806年 - 前375年
中山 姫姓 河北省中部、太行山の東の麓 前507年 - 前406年
中山 姫姓 河北省中部、太行山の東の麓 侯→王(前323年自称) 前380年頃 - 前296年
四川省中部 周の冊封を受けていない為無爵位 ? - 前316年
中国語版 姫姓 重慶市、四川省東部 ? - 前316年
嬀姓 宛丘 前1046年 - 前478年
姫姓蔡氏 上蔡新蔡下蔡 前1046年 - 前447年
姫姓 陶丘 前1046年 - 前487年

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ 記載は哀公十四年(紀元前481年)に「獲麟」(麒麟を獲た)
  2. ^ 『史記』では周の元王元年
  3. ^ 『史記』では周の元王2年
  4. ^ 周が申国犬戎滅ぼされた紀元前771年から、晋の分裂紀元前403年までを春秋時代、以降を戦国時代と呼ぶ。両時代の違いは主に、春秋時代は周が重んじられていた(尊王攘夷)のに対し、戦国時代は周が軽んじられていた(王号自称)ことなどが挙げられる。
  5. ^ BC226とも
  6. ^ 昌平君紀元前223年)とも[15]
  7. ^ a b c BC453〜とも
  8. ^ と結んだ残党が滅んだBC222とも
  9. ^ 代王紀元前227年 - 紀元前222年)とも

出典

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  1. ^ 「秦既得意,焼天下《詩》・《書》,諸侯史記尤甚,為其有所刺譏也……独有《秦記》,又不載日月,其文略不具。然戦国之権変亦有可頗采者。……余於是因《秦記》,踵《春秋》之後,起周元王,表六国時事,訖二世,凡二百七十年,著諸所聞興壊之端」《史記 六国年表》
  2. ^ 《左伝 哀公十九年》:冬,叔青如京師,敬王崩故也。
  3. ^ 「前453年由三家瓜分晋国的局面便已形成,但直到前403年,韓・趙・魏三家才敢封侯,因此考量到以周王元年為断代点此一条件,自然以周哀王元年,也即前441年為戦国時代的起点為最適当的選擇」《孫子兵法論正》
  4. ^ a b c d e f 島崎 2019, p. 66.
  5. ^ 佐藤 2016, p. 209,210.
  6. ^ 佐藤 2016.
  7. ^ 島崎 2019, p. 103.
  8. ^ a b c d 島崎 2019, p. 35.
  9. ^ a b c d e f 島崎 2019, p. 102.
  10. ^ a b 島崎 2019, p. 44.
  11. ^ a b c d e f 島崎 2019, p. 92.
  12. ^ a b c 島崎 2019, p. 43.
  13. ^ a b c 島崎 2019, p. 98.
  14. ^ a b 島崎 2019, p. 101.
  15. ^ 島崎 2019, p. 100.
  16. ^ 島崎 2019, p. 40.
  17. ^ 『世界歴史大系 中国史1』山川出版社、284頁
  18. ^ a b c 島崎 2019, p. 88.
  19. ^ 島崎 2019, p. 90.
  20. ^ a b c 島崎 2019, p. 45.
  21. ^ a b c 島崎 2019, p. 95.
  22. ^ 島崎 2019, p. 97.
  23. ^ a b c d e f g 島崎 2019, p. 86.
  24. ^ 島崎 2019, p. 42.
  25. ^ a b 史記・巻四十六・田敬仲完世家第十六》:康公貸立十四年,太公遷康公于海上。明年,魯敗斉平陸。三年(康公十八年、紀元前387年),太公与魏文侯会濁澤,求為諸侯。魏文侯乃使使言周天子及諸侯,請立斉相田和為諸侯。周天子許之。康公之十九年,田和立為斉侯,列于周室,紀元年。
  26. ^ 佐藤 2016, p. 204.

参考文献

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  • 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』中央公論新社、2016年。 
  • 島崎晋『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。