近衛政家
近衛 政家(このえ まさいえ)は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての公家。関白、太政大臣。藤原北家摂家近衛家14代当主。一字名は霞。号は後法興院。
時代 | 室町時代中期-戦国時代前期 |
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生誕 | 文安元年(1444年) |
死没 | 永正2年6月19日(1505年7月20日) |
別名 | 霞(一字名) |
諡号 | 後法興院 |
官位 | 従一位、関白、太政大臣、准三宮 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇→後柏原天皇 |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛房嗣、母:播磨局 |
兄弟 | 教基、政家、道興、増運、政深、政家 |
妻 | 北小路俊子 |
子 | 尚通、良誉、大聖院、女子 |
生涯
編集文安元年(1444年)、関白・太政大臣を務めた近衛房嗣(ふさつぐ)の次男として生まれる(生年については1445年、1446年説もあり)。兄に近衛教基(右大臣)、弟に道興(大僧正准三后)、増運(大僧正准三后)、政深(権僧正法印)、政弁(大僧正)らがいる。
元服の際には室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱の授与を受けて政家と名乗る(弟の政深、政弁も同様)。
寛正3年(1462年)、兄の教基が男子なくして死去したのに伴い、政家が近衛家を嗣ぐことになる。
翌年、従三位に叙され、右近衛中将に任ぜられる。その後も連年昇進を続け、応仁元年(1467年)には権大納言となり、文明4年(1472年)には正二位内大臣となる。
応仁の乱が終熄した文明11年(1479年)に関白左大臣となる。同15年関白を辞した後、長享2年(1488年)太政大臣に任命される(翌々年辞去)。明応6年(1497年)には准三宮となった。
永正2年(1505年)6月19日、薨去。享年62。なお、正室はおらず、家女房である北小路俊子が生んだ尚通が後を継いだほか、別の女性との間に良誉(興福寺別当・大僧正)を儲けている。
文化人としての側面
編集政家は和歌に優れており、その歌は『新撰菟玖波集』に入集している。なお明応9年8月13日(1500年9月6日)に近江守護六角高頼の招待で琵琶湖へ出向していた政家が、近江八景の和歌8首を即興で詠んだことが、近江八景の由来として広く知られているが、近年では八景の始まりは政家によるものではない(政家はこの時期、近江へ下向していない)とする説も有力である。
近衛家は藤原氏嫡流として、藤原道長の日記『御堂関白記』をはじめとして、先祖代々の日記や朝廷儀式の記録など、重要な文書を相伝してきたが、政家は応仁・文明の乱に際し、これら大量の古文書を戦火の災いから避けるため、京都の北郊の岩倉に運び出しておいた。このため乱の最中、近衛家の邸宅は焼失したものの、古文書類は難を逃れ後世に伝えられることとなった(詳しくは「陽明文庫」を参照)。
また、政家自身が残した日記『後法興院記』も、室町時代中期の朝廷を知る上での貴重な史料として知られる。
官職および位階等の履歴
編集系譜
編集参考文献
編集- 野島寿三郎 編「近衛政家」『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1997年、305頁。ISBN 4816912444。
- 山田邦明 著「近衛政家」、戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年。ISBN 4642013482。