小松輝久
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。
輝久王 小松輝久 | |
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北白川宮家・小松侯爵家 | |
1930年代撮影 | |
続柄 | |
身位 | 王 → 侯爵(華族) → 制度廃止 |
敬称 | 殿下 → 閣下 → 制度廃止 |
出生 |
1888年8月12日 日本、東京府東京市 |
死去 |
1970年11月5日(82歳没) |
埋葬 | 護国寺 |
配偶者 | 島津薫子(島津忠済の娘) |
子女 |
小松彰久 小松豊久 木戸舒子(木戸幸一長男・孝澄の妻) |
父親 | 北白川宮能久親王 |
母親 | 岩浪稲子 |
役職 | 海軍中将 |
小松輝久 こまつ てるひさ | |
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生年月日 | 1888年8月12日 |
出生地 |
日本 東京府東京市 (現東京都) |
没年月日 | 1970年11月5日(82歳没) |
出身校 | 海軍兵学校 |
現職 | 平安神宮宮司 |
称号 |
従二位 正四位 大礼記念章 |
配偶者 | 島津薫子 |
親族 |
義兄・有馬頼寧(農林大臣) 義弟・保科正昭(貴族院議員) 義弟・二荒芳徳(貴族院議員) |
在任期間 |
1908年8月10日 - 1910年7月20日 1913年8月11日 - 1946年4月6日 |
生涯
編集北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。
1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)[3][4]。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。
当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した[5]。これは皇族としては唯一の例である。
1909年(明治42年)、海軍兵学校第37期卒業。卒業時の成績は26番(通常では皇族は首席となるが、特別扱いを拒否したため)。
1910年(明治43年)6月に渡台。父・能久親王が祭神となっている台湾神社を6月16日に[6]、同じく北白川宮御遺跡所(のちの台南神社)を6月17日に[7]、それぞれ参拝した。 そして同年7月20日、請願により臣籍降下し「小松」姓を賜った[8]とともに、侯爵に叙される[9]。すなわち小松侯爵家を創設する。これによって1903年(明治36年)に小松宮彰仁親王が薨じて以来断絶していた小松宮家の祭祀を承継した。当日は午前10時30分より明治天皇・皇后に対する朝見の儀が執り行われ、午前11時に爵記等が親授された[10]。なお、当時は降下の運用基準が明確でなく、降下自体が非常に稀な時期であった(永世皇族制も参照)。
海軍兵学校卒業後は一貫して終戦間際まで帝国海軍の軍務に服した。1915年(大正4年)に大尉に昇進して戦艦「金剛」、「山城」分隊長[11]。1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月間に亘る皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪航海に、海軍軍人として同行した。3月10日に皇太子が香港に上陸した際、同地の日本に対する政情不安を鑑みて、移動の車上にいた皇太子は実は、身代わりになった小松大尉であった。また、この年、少佐に昇進して軍令部参謀、海軍大学校など教育畑も務めた。
年譜
編集- 1908年(明治41年)8月10日:貴族院議員となる[12](皇族議員として1910年(明治43年)7月20日まで[13]、侯爵議員として1913年(大正2年)8月11日から1946年(昭和21年)4月6日[14]まで在任。)
- 1909年(明治42年)11月19日:海軍兵学校を卒業(第37期)し、海軍少尉候補生に任じられ「阿蘇」乗組を命ぜられる。
- 1910年(明治43年)6月:渡台し台湾神社及び北白川宮御遺跡所を参拝。
- 1911年(明治44年)8月4日:砲術学校普通科学生となる。
- 12月20日:水雷学校普通科学生となる。
- 1912年(明治45年)4月24日:「河内」乗組
- 12月1日:海軍中尉に任じられる。
- 1913年(大正2年)
- 1914年(大正3年)5月27日:「鞍馬」乗組
- 12月1日:横須賀鎮守府附
- 1915年(大正4年)12月13日:海軍大尉に任じられ、海軍大学校乙種学生となる。
- 1916年(大正5年)6月1日:砲術学校高等科学生
- 12月1日:「金剛」分隊長となる。
- 1917年(大正6年)9月11日:「夕暮」乗組
- 12月1日:「浦風」乗組
- 1918年(大正7年)6月19日:「山城」分隊長
- 12月23日:横須賀鎮守府附
- 1919年(大正8年)12月1日:海軍大学校甲種学生
- 1921年(大正10年)12月1日:海軍少佐となる。
- 1922年(大正11年)12月1日:第2水雷戦隊参謀
- 1923年(大正12年)11月10日:軍令部参謀兼海軍大学校教官
- 1924年(大正13年)12月16日:横須賀鎮守府附
- 1925年(大正14年)1月12日:英国留学
- 12月1日:海軍中佐となる。
- 1927年(昭和2年)2月19日:帰朝する。
- 4月1日:「帆風」駆逐艦長
- 12月1日:軍令部参謀兼海軍大学校教官
- 1928年(昭和3年)12月10日:「五十鈴」副長
- 1929年(昭和4年)11月15日:「長門」副長
- 1930年(昭和5年)12月1日:海軍大佐に任じられ、「厳島」艦長となる。
- 1931年(昭和6年)11月14日:「迅鯨」艦長
- 1932年(昭和7年)12月1日:「木曾」艦長
- 1933年(昭和8年)11月15日:軍令部出仕
- 1934年(昭和9年)11月15日:「那智」艦長
- 1935年(昭和10年)12月2日:海軍大学校教官
- 1936年(昭和11年)12月1日:海軍少将に任じられ、第1潜水戦隊司令官となる。
- 1937年(昭和12年)12月1日:潜水学校長
- 1938年(昭和13年)11月15日:海軍大学校教頭
- 1940年(昭和15年)11月15日:海軍中将に任じられ、旅順要港部司令官となる。
- 1941年(昭和16年)7月5日:第1遣支艦隊長官となる。
- 1942年(昭和17年)2月14日:軍令部出仕
- 3月16日:第6艦隊司令長官
- 1943年(昭和18年)6月21日:佐世保鎮守府司令長官
- 1944年(昭和19年)11月4日:海軍兵学校長
- 1945年(昭和20年)1月15日:軍令部出仕
- 5月15日:待命
- 5月21日:予備役を仰せ付けられる。
- 1947年(昭和22年)11月28日:公職追放の仮指定を受ける[17]。
- 1948年(昭和23年):BC級戦犯として実刑判決を受け[注 1]、1955年(昭和30年)まで巣鴨拘置所に収監。
- 1970年(昭和45年)11月5日:没
栄典
編集- 位階
- 勲章等
- 1908年(明治41年)11月3日 - 勲一等旭日桐花大綬章[15]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[20]
系図
編集
参考文献
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 容疑については伊号第八潜水艦#国際法違反事件を参照。
出典
編集- ^ 「小松氏が大宮司に」毎日新聞2017年7月4日 東京朝刊
- ^ “伊勢神宮大宮司が就任会見 「次期遷宮へ改善点整理」”. 西日本新聞. 2021年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月2日閲覧。
- ^ 『提督 草鹿任一』(光和堂)
- ^ 「皇族と帝国陸海軍」
- ^ 『提督 草鹿任一』(光和堂)
- ^ 臺灣神社社務所 1935, p. 83(NDLJP:3460493/66)
- ^ 台南神社社務所 1928, p. 41(NDLJP:1907486/47)
- ^ a b 明治43年宮内省告示第10号(『官報』号外、明治43年7月20日)(NDLJP:2951475/14)
- ^ a b 『官報』号外「叙爵」、明治43年7月20日(NDLJP:2951475/14)
- ^ 『官報』号外「宮廷録事」、明治43年7月20日(NDLJP:2951475/14)
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、115頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、17頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、18頁。
- ^ 『官報』第5788号、昭和21年5月4日。
- ^ a b 『官報』第2106号「叙任及辞令」、明治41年11月4日(NDLJP:2950955/3)
- ^ 『官報』第311号、大正2年8月12日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」28頁。
- ^ 『官報』第2106号「叙任及辞令」、大正8年8月12日。
- ^ 『官報』第4147号「叙任及辞令」、昭和15年11月1日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」、大正4年12月13日。
関連項目
編集- 小松揮世久(孫)
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
侯爵 (旧皇族)小松家初代 1910年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |