谷村自足
谷村 自足(たにむら よりたる、1675年(延宝3年) - 1754年8月25日(宝暦4年7月8日))は、江戸時代中期の土佐藩上士。通称は藤馬。谷村家の第2代当主。有楽流(織田貞置流)茶人[1]。無双直伝英信流第15代 谷村亀之丞自雄の曾祖父[2]。
来歴
編集生い立ち
編集延宝3年(1675年)、谷村政寿(玄柳)の嫡男として生まれる[2]。幼名は左門、金四郎、九郎太夫、右衛門八と変わったが、字の藤馬として知られる。
元禄4年(1691年)、土佐藩主・山内豊昌の時代、叔父・谷村元直(喜左衛門・次郎四郎)の養子となる[2]。谷村元直は、自足の実父・谷村政寿(八郎兵衛・玄柳)の弟にあたる[2]。
茶人として
編集三河吉田藩士の土肥自在軒(二三翁)に師事し、有楽流(織田貞置流)の茶道を修める[1]。
茶道相伝系譜
編集跡目相続以降
編集元禄8年9月6日(1695年10月13日)、亡養父・谷村元直の跡目を相違無く下し置かれ相続する[2]。
元禄12年(1699年)、川田新兵衛代番にて江戸表へ罷り越し、翌13年3月(1700年4月下旬~5月上旬)、交代をする筈のところ、太守様御参勤の後の御用があった為、御差留を仰せ付けられ、御参府の後、山内豊房公の御使役を仰せ付けられ、相勤め罷り在り候ところ、同8月3日(1695年9月15日)、豊房公の大御小性を仰せ付けられ、御入部の御供をつかまつり、土佐へ帰着したが、江戸において、山内豊昌公御遠行を遊ばされ、俄に御参府遊ばされたので、引き返し御供を仰せ付けられ、これに依って大儀料として白銀八枚を下し置かれた[2]。
元禄14年9月4日(1701年10月5日)、土佐藩主山内豊房公の時代、野根在番を仰せ付けられる[2]。
大坂御留守居役
編集元禄16年7月10日(1701年8月22日)、大坂御留守居役を仰せ付けられ、妻子領知50石を下し置かれた[2]。
宝永4年12月23日(1708年1月15日)、土佐藩主山内豊隆の時代、柄弦御指物役を仰せ付けられ、役領知50石を下し置かれる[3]。
宝永6年8月27日(1709年9月30日)、御献上御材木の御用方を宜しく相勤め、御献材御首尾よく相済ませた事により、御祝儀・御帷子2領を成し遣わされた[2]。
正徳3年11月9日(1713年12月26日)、御近習足軽知200石を下し置かれ、従来の役領知は除かる[2]。
享保元年3月6日(1716年4月27日)、江戸留守居役ならびに御内用方を兼帯仰せ付けられ、役領知200石を下し置かれた[3]。
享保5年7月6日(1720年8月9日)、土佐藩主山内豊常の時代、江戸において御家督なされ御祝儀、御加増知50石下し置かれる[2]。
享保6年3月11日(1721年4月7日)、江戸において逐年「耳遠」に罷り成り候につき願いをもって従来の役を御免。役領知ならびに妻子領を召し上げらる。尤も御鉄砲知はそのまま下し置かれた。同年閏7月25日(1721年9月16日)、従来の足軽知を外輪足軽知に引き直さる[2]。
享保10年7月4日(1725年8月11日)、今般、太守様御入部遊ばされる節、御歓なされ予州伊達遠江守様より御使者が参り、この御返礼の御使者を仰せ付けられ、本日爰元に出発。同7月12日(太陽暦8月19日)、帰着[2]。
同9月2日(太陽暦10月7日)、山内豊常公が御遠行遊ばされ、御家督を為し済まされ、本山土居守を仰せ付けらる[2]。
御馬廻組頭
編集享保11年12月3日(1726年12月25日)、土佐藩主山内豊敷の時代、御馬廻組頭を仰せ付けられ、従来の外輪足軽知200石を当役領に引き直さる[3]。
享保16年5月16日(1731年6月20日)、御帰国につき江戸表へ御使者を仰せ付けられる[2]。
延享3年1月9日(1746年2月28日)、老年に及び、組頭役を差し免がれ、従来の役領知の内50石御加増に引き直され、御馬廻を仰せ付けらる[2]。
寛延2年(1749年)、故土肥二三翁旧蔵の茶器工藝を許可されて筆写した[1]。
晩年
編集宝暦4年7月8日(1754年8月25日)病死[2]。享年80歳[3]。墓は高知県高知市塩屋崎、妙国寺の上、渋谷傳の墓の東側にあり[3]。