山内 豊隆(やまうち とよたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名土佐藩6代藩主。

 
山内豊隆
山内豊隆像(土佐山内家宝物資料館蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝元年11月16日1673年12月23日
死没 享保5年4月14日1720年5月20日
改名 右京・松之助(幼名)→鳥居伊右衛門→山内豊隆
別名 豊長
戒名 竜泉院静国鉄心
墓所 高知県高知市天神町の真如寺
官位 従四位下侍従土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
土佐藩
氏族 山内氏
父母 父:山内一俊
母:鳥居忠春娘浄心院
養父:山内豊房
兄弟 豊房、休、豊隆豊英、女子
円徳院ら
久米千代、豊常、氏松、整、長ら10男4女
テンプレートを表示

生涯

編集

延宝元年(1673年)11月16日、山内家の分家である武蔵国指扇山内家(新橋山内家)の当主・山内一俊の次男として生まれる。はじめ鳥居家の養子となって鳥居伊右衛門と名乗った。しかし兄の5代藩主・山内豊房に継嗣がなかったため、宝永3年(1706年)に兄が死去すると、その養子として跡を継いだ。

しかし豊隆は無能であり、兄が登用した山内規重谷秦山深尾重方などを次々と処罰してゆく。宝永4年(1707年)10月4日には宝永地震で1,844人(10月26日時点)の死者を出すという惨事に見舞われた[1]ため、地震の救済に務めながら宝永の改革と呼ばれる藩政改革に着手したが、効果はなかった。地震の翌年、震災対応のため老中土屋相模守の便宜により豊隆は参勤交代を免除されたが、襲封以来の初の参勤であることと母の病気の見舞いというもっともらしい理由をつけて、震災対応も「大方手合仕」として、宝永5年内に江戸に参勤している。しかし、この大震災が短期間で復興するはずがなく、その行動も土佐藩政史上に名君が少ないとされる一因とされる[2]

享保5年(1720年)4月14日、江戸で死去した。享年48。跡を次男の豊常が継いだ。

先代からの重臣たちを次々と粛清したことから評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている。

系譜

編集

子女は10男4女

出典

編集
  1. ^ 間城龍男 『宝永大地震 -土佐最大の被害地震-』 あさひ謄写堂、1995年
  2. ^ 高知県『高知県史 近世編』p277