蜂須賀宗員
日本の江戸時代中期の大名。阿波徳島藩5代藩主蜂須賀綱矩四男で、阿波富田藩3代藩主及び徳島藩6代藩主。従四位下侍従・淡路守
蜂須賀 宗員(はちすか むねかず)は、阿波富田藩の第3代藩主。のち徳島藩の第6代藩主。
蜂須賀宗員像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝永6年1月1日(1709年2月10日) |
死没 | 享保20年6月7日(1735年7月26日) |
改名 | 正員(初名)→宗員 |
別名 | 隠岐 |
墓所 | 徳島県徳島市下助任町 興源寺 |
官位 | 従四位下、侍従、淡路守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 阿波富田藩第3代藩主→阿波徳島藩第6代藩主 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 |
父:蜂須賀綱矩、母:架祥院(安西作左衛門・娘) 養父:蜂須賀隆長 |
兄弟 | 吉武、隆寿、宗員、蓮光院(井伊直惟室)、娘(小笠原忠貞室)、娘(大久保忠興婚約者)、娘(安藤信尹婚約者) |
妻 |
正室:瑩光院 婚約者:津治姫 |
子 |
重矩、娘(井伊直禔婚約者) 養子:宗英 |
生涯
編集徳島藩第5代藩主・蜂須賀綱矩の四男。母は安西作左衛門の娘・架祥院。初名は正員(まさかず)。通称は隠岐。
当初、兄吉武が阿波徳島藩の世子となっており、正員は阿波富田藩主・隆長の養子になった。正徳4年(1714年)11月16日、養父・隆長の死去により富田藩主となる。享保3年(1718年)2月15日、将軍徳川吉宗に御目見した。
享保7年(1722年)12月18日、従五位下隠岐守に叙任する。後に淡路守に改めた[1]。
享保10年(1725年)7月4日、長兄・吉武が早世したため、宗家に戻って世子となる。このため、富田藩は所領を徳島藩に返納して廃藩となった。同年12月7日、従四位下に昇進し、将軍徳川吉宗の偏諱を受けて宗員と改名した。後に侍従に任官した。
享保13年(1728年)1月23日、父・綱矩の隠居により家督を継いだ。
享保20年(1735年)6月7日、死去。享年28。次男・文太郎(のちの重矩)は幼少だったため、一族から宗英を養子に迎えて跡を継がせた。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『蜂須賀家記』