蔣孝厳
蔣 孝厳(しょう こうげん、繁: 蔣 孝嚴、1942年〈民国31年〉3月1日 - )は、中華民国の政治家。中国国民党所属の外省人。第3代中華民国総統の蔣経国の婚外子であり、2005年(民国94年)以前の姓名は章 孝厳(しょう こうげん、繁: 章 孝嚴)。台北市長の蔣万安は長男である。
蔣 孝厳 蔣 孝嚴 | |
---|---|
| |
生年月日 | 1942年3月1日(82歳) |
出生地 |
中華民国 広西省桂林県 (現:広西チワン族自治区桂林市) 広西省立桂林病院 |
出身校 |
台湾省立新竹中学 東呉大学 ジョージタウン大学 |
所属政党 | 中国国民党 |
配偶者 | 黄美倫 |
親族 |
蔣介石(祖父) 蔣経国(父) 蔣万安(長男) |
在任期間 | 2008年11月22日 - 2014年4月30日 |
党主席 |
呉伯雄 馬英九 |
選挙区 |
台北市第二選挙区(第5期) 台北市第一選挙区(第6期) 台北市第三選挙区(第7期) |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 2002年2月1日 - 2012年1月31日 |
在任期間 | 1999年11月18日 - 1999年12月22日 |
総統 | 李登輝 |
内閣 | 蕭万長内閣 |
在任期間 | 1997年9月1日 - 1997年12月11日 |
総統 | 李登輝 |
内閣 |
連戦内閣 蕭万長内閣 |
在任期間 | 1996年6月10日 - 1997年10月20日 |
総統 | 李登輝 |
その他の職歴 | |
中国国民党 第12代 秘書長 (1997年12月11日 - 1999年11月18日) |
蔣 孝厳 | |
---|---|
職業: | 政治家 |
籍貫地: | 浙江省奉化県 |
各種表記 | |
繁体字: | 蔣 孝嚴 |
簡体字: | 蒋 孝严 |
ラテン字: | Chiang Hsiao-yen |
和名表記: | しょう こうげん |
発音転記: | チアン シャオイェン |
英語名: | John Chiang |
来歴
編集生い立ち
編集通説では、章孝厳と章孝慈は蔣経国と章亜若の間に生まれた双子の婚外子であり、日中戦争中の1942年(民国31年)3月1日に広西省桂林県(現:広西チワン族自治区桂林市)の省立桂林病院で生まれたとされている[1][2]。蔣経国は既に蔣方良と結婚していたため、子供たちには章姓を名乗らせた。2人は祖父の蔣介石によって「孝厳」、「孝慈」と命名され、蔣経国の他の子と同様に「孝」の輩行字が使われた[3]。
章亜若は同年8月に死去したため、章孝厳と章孝慈は伯父の章浩若とその妻の紀琛によって育てられ、夫妻は兄弟2人の実の父母として戸籍に登録されていた。国共内戦中に兄弟は祖母の周錦華と共に台湾省新竹市に移住し、祖母、叔父(章澣若)、叔母(章向鳳妹)によって育てられた。1960年(民国49年)、蔣孝厳は台湾省立新竹中学(現:国立新竹高級中学)を卒業した。後に民主進歩党主席を務めた許信良は同校で1学年上だった。
兄弟揃って東呉大学に進学した後の1960年代末に、2人は自らの祖父が蔣介石であり、父が蔣経国であることを初めて知った[4]。
外交官
編集1974年(民国63年)から1977年(民国66年)まで、駐アメリカ合衆国中華民国大使館で勤務した。滞在中にジョージタウン大学で修士号を取得し、後に外交部北美司長に就任した。
1996年(民国85年)6月10日から1997年(民国86年)10月20日まで、外交部長を務めた。
立法委員
編集2001年(民国90年)の立法委員選挙で、台北市第二選挙区から第5期立法委員に選出された。
2006年(民国95年)4月6日、中国国民党の台北市長予備選挙に出馬を表明したが、4月26日に辞退を表明した[5]。
2008年(民国97年)の立法委員選挙では台北市第三選挙区から立候補して99,959票(得票率60.26%)を獲得して大勝した。この記録はこの選挙区での史上最高の得票率であり、未だ破られていない。
同年11月に中国国民党副主席に就任し、2014年(民国103年)4月30日に退任した。
2011年(民国100年)4月、立法委員選挙の台北市第三選挙区の候補を選ぶ中国国民党の予備選挙が行われ、羅淑蕾が1%以下の僅差で蔣孝厳を破った。台北市党部はこれはまだ最終結果ではないと発表したが、蔣孝厳は辞退を表明し、羅淑蕾の選挙チームの主任委員に志願した。
2016年(民国105年)、長男の蔣万安が台北市第三選挙区から立法委員に選出され、2020年(民国109年)に再選した。
論争
編集改姓
編集章孝厳は何度も宋美齢との面会を求めたが、実現しなかった。また、蔣経国の妻の蔣方良や蔣家の嫡子たちに会って自らの存在を認めてもらおうとしたが、全て失敗に終わった。双子の弟の章孝慈は兄の蔣姓への改姓に強く反対していたが、1996年(民国85年)に死去した。章孝厳は2004年(民国93年)12月に蔣方良が死去するのを待ち、2005年(民国94年)、蔣姓に改姓し、自身の子供たちにも蔣姓を名乗らせるとした。かつて蔣経国の側近だった元駐パラグアイ大使の王昇は、蔣経国が章孝厳と章孝慈に生活費を援助していたと証言した[6]。
2002年(民国91年)7月、章孝厳は中国大陸の江西省南昌市を訪れて章浩若の子である章修純と章修維を探し出し、章浩若は章孝厳の父ではなく、章亜若が章孝厳と章孝慈の実母であることを証明する文書を作成した。その後、章孝厳は桂林病院で自らの出生証明書を取得したが、母親の名前は「紀琛」と記載されていた。2003年(民国92年)、章孝厳はアメリカ合衆国に移住していた紀琛を訪ね、頭髪を入手してDNA型鑑定を行った。その結果、紀琛は章孝厳の実母ではないことが証明された[7]。2005年(民国94年)3月、台北市民政局、内政部、法務部での法的手続きを経て、蔣一族との間でDNAやその他の医学的証拠を比較することなく、身分証の父親欄を蔣経国に変更し、姓も蔣に改めた[8]。
不倫
編集1999年(民国88年)12月21日、当時総統府秘書長を務めていた章孝厳と、とある女性芸術家との間の不倫の噂が広まっていたことに対して、総統府のスポークスパーソンの丁遠超は「11月10日、当時中国国民党秘書長だった章孝厳はリージェント台北にて『あなたへの愛は疑いようがなく、来年(2000年)6月末までに妻(黄美蘭)との離婚手続きを完了することを約束する』と書かれたメモに署名していた」とする声明を発表した[9][10][11][12]。翌12月22日に章孝厳は総統府秘書長を辞職し、史上最も在任期間の短い総統府秘書長となった。
金銭問題
編集2019年(民国108年)5月、台湾人実業家の呉は、中国大陸の役人と交渉するために蔣孝厳に金銭を渡したが交渉に失敗したため、メディアに訴えると脅して返金を要求した。呉は1年半前、中国大陸での投資に関するトラブルにより台湾に帰国する前に4000万元(約1億8000万新台湾ドル)の支払いを求められた。 そのため、呉は蔣孝厳が会長を務める中国台商発展促進協会に働きかけ、会計の馮姓の女性に700万元(約3150万新台湾ドル)を手数料として渡し、蔣孝厳と面会したが、結局、スムーズに台湾に戻るためには大陸の役人に自分でお金を支払わなければならなかったという。 蔣孝厳に金銭を騙し取られたと考えた呉はこの一件をメディアに暴露すると脅し、蔣孝厳の事務所の主任である詹清池は100万新台湾ドルを返金すると言い、蔣孝厳の子の蔣万安の選挙活動に支障をきたさないようにと呉に求めたが、馮は700万元は中国大陸の役人への賄賂に使われたと主張し、返金に応じようとしなかった。監視カメラには詹清池と呉との交渉の様子が鮮明に記録されており、両者の対話が呉の告発の動かぬ証拠となった[13]。これに対して中国台商発展促進協会は、呉の申し立ては虚偽であり、弁護士を雇って名誉毀損で告訴したと述べた[14]。
家族
編集蔣孝厳と妻の黄美倫との間には、2人の娘(蔣蕙蘭、蔣惠筠)と1人の息子(蔣万安)がいる。
家系図
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ “蒋家门外的孩子”. 2013年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月31日閲覧。
- ^ “桂林市第二人民医院——厚德 奉献 精诚 创新”. www.gleyy.com. 2017年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月21日閲覧。
- ^ “蔣家門外的孩子—蔣孝嚴逆流而上 天下文化 2006年05月05日”. 2007年8月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月16日閲覧。
- ^ 《聯合報》,台北,1990-01-02
- ^ “馬有人選了? 蔣孝嚴退出北市長初選”. 自由時報 (2006年4月27日). 2022年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月23日閲覧。
- ^ “蔣孝嚴:身處“蔣家門外”,留下終身遺憾 中國評論 2009-07-24”. 2012年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月16日閲覧。
- ^ “章孝嚴跋涉萬里追蹤DNA”. 2005年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月16日閲覧。
- ^ “蔣孝嚴:認祖歸宗背後的秘密 瀟湘晨報 2005年07月23日”. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月16日閲覧。
- ^ “王筱嬋傳為女主角”. 2017年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月19日閲覧。
- ^ “存档副本”. 2018年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月19日閲覧。
- ^ “曾打章孝嚴一巴掌”. 自由時報 (2002年11月14日). 2019年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月5日閲覧。
- ^ “恩愛夫妻一夕變天”. 華視新聞 (2019年1月10日). 2022年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月5日閲覧。
- ^ “【全文】台商付3千萬求疏通 蔣孝嚴遭控喬事不成只退百萬”. 鏡傳媒 (2019年5月4日). 2019年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月5日閲覧。
- ^ “遭控收台商錢不辦事 蔣孝嚴協會聲明報導不實將提告”. 自由時報 (2019年5月1日). 2019年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月5日閲覧。