荻田長磐

江戸時代初期の越後高田藩家老

荻田 長磐(おぎた ながいわ)、通称荻田 隼人(おぎた はやと)は、江戸時代初期の越後高田藩家老荻田勝定の子で、荻田主馬(三代目)の名で有名な荻田長繁の孫。妻は神尾守勝の娘。子に荻田本繁神尾守勝がいる。

 
荻田 長磐
時代 戦国時代から江戸時代
生誕 寛永5年(1628年
死没 寛文5年12月27日1666年2月1日
別名 隼人
戒名 直林院殿雄山良英大居士
墓所 新潟県糸魚川市大字小見の龍光寺
主君 結城秀康松平忠直松平光長
越後国高田藩
氏族 越後荻田家
父母 父:荻田勝定
本繁(長男)、守勝(次男)、娘(岡嶋壱岐利臺室)、娘(本多七左衛門重貞室)
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経歴

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寛永12年(1635年)、父・勝定の死去により家督を継ぎ、高田藩家老・糸魚川城代(1万4千石)となる。筆頭家老の小栗正重と共に藩政を支え、藩主松平光長(越後中将家)[1]を補佐した。また、正重と共に新田開発を推進し、現在の南魚沼市新堀新田は、長磐により開発された村という。

寛文5年(1666年)に発生した越後高田地震により、正重ともども圧死した。

長男の本繁は越後騒動の中心人物として知られる。次男の吉繁は旗本神尾守正末期養子となり、神尾守勝と名乗った。

脚注

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  1. ^ 松平忠輝(越後少将家)と区別するため「越後中将家」と称される。

参考文献

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関連項目

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先代
荻田勝定
越後荻田家歴代当主
1635年 - 1665年
次代
荻田本繁