芸術断想
『芸術断想』(げいじゅつだんそう)は、三島由紀夫の評論・随筆。三島が鑑賞した能、歌舞伎、戯曲、映画、オペラ、バレエなどの様々な評論と、それにまつわる芸術論を綴った随筆である。時にはその鋭い美的鑑賞眼で、俳優の演技や演出について辛辣に批評している。最後の章では、劇場めぐりをつづける観客および劇評家の心境として、安楽な椅子に座り最上の待遇にもかかわらず、〈示されるもの、見せられるもの〉を見るというその受動的な状況に、人間の本来の在り方から反する不自然さを感受し、〈観客〉などと十把一からげに呼称される〈芸術の享受者〉の立場の中には〈何か永遠に屈辱的なもの〉があると随想している。
芸術断想 | |
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作者 | 三島由紀夫 |
国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 随筆、評論 |
発表形態 | 雑誌連載 |
初出情報 | |
初出 | 『芸術生活』1963年8月号-1964年5月号 |
出版元 | 芸術生活社 |
刊本情報 | |
刊行 | 『目――ある芸術断想』 |
出版元 | 集英社 |
出版年月日 | 1965年8月20日 |
装幀 | 伊藤アキラ |
総ページ数 | 191 |
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発表経過
編集1963年(昭和38年)、雑誌『芸術生活』8月号から翌1964年(昭和39年)5月号まで連載された[1]。単行本はその翌年の1965年(昭和40年)8月20日に、集英社より『目――ある芸術断想』として刊行された[2]。
内容
編集10の章に分けられ、舞台や映画の感想や批評、それに伴う芸術論や随想が断片的に綴られてゆく。
- 舞台のさまざま
- 銕仙会の能『大原御幸』と『竜田』(シテ方:観世銕之丞)、パリ・オペラ座のバレエ『フェードル』(原作:ラシーヌ。台本・装置・衣裳:コクトー)、文学座アトリエ公演『女中たち』(原作:ジャン・ジュネ)、『三原色』(原作:三島由紀夫。演出:堂本正樹)
- 猿翁のことども
- ディエス・デル・コラール著『ヨーロッパの略奪』、猿翁の演技について、戯曲『トスカ』(原作:サルドゥ。潤色:三島由紀夫。主演:杉村春子)、短編小説について、映画『鳥』(監督:ヒッチコック)、能『俊寛』(シテ方:観世静夫)、
- 詩情を感じた「蜜の味」
- オペラ『美濃子』執筆について、東宝劇団の『桑名屋徳蔵入舟噺』(原作:並木正三。演出:郡司正勝。装置:高根宏治)、銕仙会の能『敦盛』(シテ方:山本真義)、映画『蜜の味』(監督:トニー・リチャードソン)、文楽『妹背山』
- 群集劇の宿命
- 芸術上の想像力について、文学座アトリエ公演『調理場』(原作:ウェスカー。演出:木村光一)、歌舞伎『楼門』、エドワード・アルビーの戯曲『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』、日生劇場見学
- 期待と失望
- 『鹿鳴館』(原作:三島由紀夫。出演:水谷八重子)、俳優論、歌舞伎『千本桜』(主演:松緑)、二科展鑑賞、ボクシング世界フライ級選手権試合(海老原vs.ポーン)観戦
- 三流の知性
- ベルリン・オペラ『トリスタンとイゾルデ』(原作:ワーグナー。演出:ヴィーラント・ワグナー)、オペラ『フィデリオ』(原作:ベートーヴェン。演出:ゼルナー)、銕仙会の能『朝長』(シテ方:観世銕之丞)、サンケイホールでの丸山明宏リサイタル、ニーチェ著『ニーチェ対ワグナー』
- モニュメンタルな演技
- 歌舞伎『先代萩』、歌舞伎『京鹿子娘道成寺』、民芸公演『夏の日、突然に』(原作:テネシー・ウィリアムズ)、喜びの琴事件について
- 英雄の病理学
- 映画『アラビアのロレンス』(監督:デヴィッド・リーン)、サンケイホールでのホセ・リモン舞踊団の公演(『パッサカリアとフーガ・ハ短調』、『皇帝ジョーンズ』、『コンチェルト・グロッソ・ニ短調』、『ミサ・ブレヴィス』)、歌舞伎『忠臣蔵六段目』(主演:市川猿之助)、銕仙会の能『野宮』(シテ方:観世静夫)
- 憤りの詩心
- 映画『おかしなおかしなおかしな世界』(監督:スタンリー・クレイマー)、日生劇場での武智歌舞伎公演『勧進帳』(演出:武智鉄二)、能『翁』と『石橋』、浅野晃の詩集『寒色』、日本の舞台装置について、プロデューサー・システムについて
- 劇中の中の「自然」
- スタニスラフスキー著『俳優修業』と演出家論、『リチャード三世』(原作:シェイクスピア。演出:福田恆存)、歌舞伎『弁天小僧』、オペラ『ロング・クリスマス・ディナー』(原作:ヒンデミット。演出:松浦竹夫)、観劇めぐりをつづけるニヒリズムについて
三島由紀夫は、刊行本に際しての「あとがき」で、以下のように述べている。
評価・研究
編集『芸術断想』は様々な三島由紀夫の芸術批評が展開されているが、そこには「心理的な間というもののない能に対して、悪しき心理主義、浅薄な心理主義の浸潤をゆるしてしまった歌舞伎への怨嗟」が基調になっていると今村忠純は解説している[4]。
また今村は、三島がオペラ台本を書く上での台詞(劇)と音楽のバランスを説いて、〈論理的必然性は劇文学を成立させる最低の条件であるが、よい戯曲はこれに加へるに、この必然性を乗り超えた「自由と運命との高度の結びつき」を高鳴らせ〉ることにあると、ドラマの意味を考察しているところに触れて、こういった三島の視点が、「舞踊的要素と劇的要素との矛盾対立の瞬間に表れる能の楽劇としての感興」を洞察する三島の考察とも照応していると説明している[4]。
三島を、「芸術と命のやりとりをしていた時代の、最後の巨人」だったと評する田中美代子は、「さりげない交友録や多彩な芸術論に托して、(三島が)つねに血肉の言葉を語っている」と考察し[5]、6章「三流の知性」でワーグナーについて言及している箇所も、「これほど痛切に、複雑な彼自身を解析し、告白したことはなかった」として、「彼(三島)にとって芸術とは、ついに身を滅ぼさずにはやまぬあらたかな媚薬なのであり、つまるところ彼自身が媚薬でした」と解説している[5]。そして8章「英雄の病理学」で、『野宮』の捨てられた女の悲哀を舞う六条御息所について三島が語っている一節を引きながら、以下のように解説している[5]。
曖昧で不定型な心理主義に堕した近代劇をしりぞけ、能楽の簡潔な構成に芸術の理想を見出していた彼は、芸術、というよりもむしろその源泉としての、遠い神的な世界をつねに翹望していたように思われます。(中略)
というとき、彼の目は、人間的な限界を越え、個人の肉体を通り抜けて、知られざる光源を透視するかのように、思われるのです。 — 田中美代子「観客の恍惚と不安」[5]
- 「彼女が心ならずも、舞踊の残酷な圧制に強ひられて踊り出すやうに見えるとき、その舞はもはや彼女に属さず、もつと高いところ、あるひはもつと深い地獄の底から、彼女に課せられた呵責のやうに見えるのである。〈自分のものでない舞〉といふ、この踊り手の主体に属さない舞踊こそ、能の〈舞〉の本質ではないか」(「英雄の病理学」)
おもな収録刊行本
編集単行本
編集- 『目――ある芸術断想』(集英社、1965年8月20日) NCID BN09601151
- 文庫版『芸術断想――三島由紀夫のエッセイ4』(ちくま文庫、1995年8月24日)
- 装幀:安野光雅。カバー装画:山本容子。カバーデザイン:渡辺和雄
- 解説:田中美代子「観客の恍惚と不安」
- 収録作品:
- 「芸術断想」「あとがき(『目――ある芸術断想』)」「盛りあがりのすばらしさ」「ベラフォンテ讃」「迫力ある『ウエストサイド物語』――初日を見て」「篠山紀信論」「序(矢頭保写真集『裸祭り』)」「ポップコーンの心霊術――横尾忠則論」「映画『双頭の鷲』について」「私の洋画経歴」「『地上より永遠に』評」「荒唐無稽」「『浮気は巴里で』」「映画の中の思春期」「『情事の終り』10の指摘」「みずみずしい生命力」「『お茶と同情』の映画化」「ディーンとブロードウェイ」「製作意図及び経過(『憂国 映画版』)」「加藤道夫氏のこと」「楽屋で書かれた演劇論」「カブキ・新劇・アメリカ演劇」「近松ばやり私観」「六世中村歌右衛門序説」「地獄のオルフェウス」「テネシー・ウィリアムズのこと」「ジャン・コクトオと映画」「稽古場のコクトオ」「ジャン・コクトオの遺言劇――映画『オルフェの遺言』」「軽金属の天使」「コクトーの死」「世界前衛映画祭を見て――傑作・コクトオの『詩人の血』」
全集
編集- 『三島由紀夫全集31巻(評論VII)』(新潮社、1975年11月25日)
- 『決定版 三島由紀夫全集32巻・評論7』(新潮社、2003年7月10日)
脚注
編集参考文献
編集- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集32巻 評論7』新潮社、2003年7月。ISBN 978-410642572-1。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』新潮社、2003年8月。ISBN 978-4106425738。
- 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820。
- 三島由紀夫『芸術断想――三島由紀夫のエッセイ4』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1995年8月。ISBN 978-4480030702。
- 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185。
- 長谷川泉; 武田勝彦 編『三島由紀夫事典』明治書院、1976年1月。NCID BN01686605。