花山院定誠
江戸時代前期の公卿。花山院定好の次男?三男?四男?。正二位・内大臣、踏歌節会内弁。花山院家24代。出家
花山院 定誠(かさんのいん さだのぶ)は、江戸時代前期の公卿。左大臣・花山院定好の三男。官位は正二位・内大臣。花山院家24代当主。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永17年2月26日(1640年4月17日) |
死没 | 宝永元年10月21日(1704年11月18日) |
改名 | 定誠→自寛(法号) |
別名 | 号:文恭院 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 後光明天皇→後西天皇→霊元天皇→東山天皇 |
氏族 | 花山院家 |
父母 | 父:花山院定好、母:鷹司信尚娘 |
兄弟 | 忠広、定教、定誠、万子 |
妻 |
正室:大炊御門経孝娘 継室:稲葉信通娘 |
子 | 定重、鷹司輔信正室、持実 |
経歴
編集京都にて誕生。2人の兄(忠広・定教)が若くして没した後、承応2年(1653年)に家督を継ぐ。
承応元年(1652年)に叙爵。以降累進し、寛文5年(1665年)に権大納言に就任。その後辞職したが、天和3年(1683年)には再び権大納言に再任された。延宝3年(1675年)から貞享元年(1684年)8月23日にかけて武家伝奏役を務めた。
貞享元年10月3日(1684年11月9日)、禁中にて泥酔した武家伝奏役・甘露寺方長と口論となった[1]。天皇の怒りを買った方長は蟄居を命じられ、12月16日付けで権大納言・武家伝奏を解任されている。定誠は同年12月12日(1685年)に内大臣に任ぜられ、貞享3年(1686年)まで務めた。