甘露寺方長
甘露寺 方長(かんろじ かたなが)は、江戸時代前期の公卿。甘露寺嗣長の次男。官位は正二位・権大納言。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶安元年12月3日(1649年1月15日) |
死没 | 元禄7年2月20日(1694年3月15日) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後光明天皇→後西天皇→霊元天皇→東山天皇 |
氏族 | 甘露寺家 |
父母 | 父:甘露寺嗣長、母:家女房 |
兄弟 | 冬長、方長 |
妻 | 正室:本多康将の娘 |
子 | 輔長、康隆、尚長、滋野井公澄室 |
経歴
編集方長は次男であったが、彼の誕生直前に兄・冬長が12歳で急逝したために嫡男として扱われる。承応元年11月16日(1652年12月16日)に叙爵、明暦2年12月23日(1657年2月6日)に元服昇殿を許されて従五位上勘解由次官に補任され、寛文3年(1663年)には正五位上左少弁となり、内々小番衆に編入される。霊元天皇の信任が厚く、寛文9年(1669年)には従四位下蔵人頭に任じられると、翌年には1年に3度の加階を受けて正四位上となる。更に寛文11年(1671年)には霊元天皇が方長を参議に任じようとして、右大臣近衛基煕と武家伝奏中院通茂に諌められて断念するという出来事が生じている[1]。だが、翌年には参議・近習小番(奥小番)に任じられ、延宝元年(1663年)には従三位に叙せられ、延宝3年(1665年)には民部卿・権中納言に任ぜられ、延宝5年(1667年)には正三位に叙せられ、延宝8年(1670年)には従二位に叙せられて御側衆(後の議奏)、天和元年(1681年)には権大納言に任ぜられ、天和3年(1683年)には36歳の若さで武家伝奏を兼ねた。
このような急激な昇進は、霊元天皇の寵愛によるところが大きく、他の廷臣からは批判の対象とされた。中院通茂は急激な昇進を「超越迷惑」[2]と表現し、近衛基煕も同様の反応を示して方長の耳にも届いている[3]。また、方長の性格について、中院通茂はその短慮を憂慮[4]し、武家伝奏就任時の関白であった一条冬経(兼輝)も天皇の意向なので任命には同意したが、(方長は)性格が粗暴で和漢の故事に疎く、職事弁官の家の出なのにその職も知らないと批判している[5]。
ところが、貞享元年10月3日(1684年11月9日)、方長は禁中にて泥酔した上に花山院定誠らと口論に及んで天皇の怒りを買うと言う事件[6]を起こし、この知らせを受けた京都所司代稲葉正通は方長への厳重な処分を求めた[7]。その結果、11月2日に蟄居を命じられ、12月26日に権大納言・武家伝奏をともに解任された。貞享4年8月16日になって罪を許され[8]、元禄元年(1688年)に権大納言に再任されるが政治的な復権はかなわず、元禄7年(1694年)には病没。死の直前に正二位に叙せられた。
系譜
編集脚注
編集- ^ 『中院通茂日記』寛文11年6月1日条
- ^ 『中院通茂日記』寛文11年正月2日条(方長、正四位上昇進時)。
- ^ 『方長卿記』延宝8年12月23日条(方長、御側衆任命時)。
- ^ 『中院通茂日記』寛文12年4月19日条(方長、近習小番推挙時)。
- ^ 『兼輝公記』天和3年11月17日条。
- ^ 『勧慶日記』貞享元年10月3日条・『基煕公記』貞享元年10月7日条。なお、花山院定誠は方長が武家伝奏に任じられた時の先任者で方長の伝奏就任にも関与し、この年の8月まで相役であった。
- ^ 寛文11年4月には霊元天皇とその近習衆が武家伝奏の関東下向を良いことに花見の酒宴を催して泥酔に及ぶ不行跡が発覚(『中院通茂日記』寛文11年4月7日条)し、天皇やその近臣による酒に関する不祥事が問題視されていた。方長ら武家伝奏は後水尾法皇や江戸幕府よりそうした不祥事を未然に防止する役目が期待されていた。
- ^ 蟄居の期間は田中、2011年、P134-135表による。
参考文献
編集- 田中暁龍「江戸時代近習公家衆について-霊元天皇近習衆を中心に-」(初出:『東京学芸大学附属高等学校大泉校舎研究紀要』15号(1990年11月)/改題所収:「寛文三年近習公家衆の成立と展開」(田中『近世前期朝幕関係の研究』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-03448-7)
- 野島寿三郎 編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年) ISBN 978-4-8169-1244-3
- 橋本政宣 編『公家事典』(吉川弘文館、2010年) ISBN 978-4-642-01442-7