興禅寺 (長野県木曽町)

長野県木曽郡木曽町にある臨済宗妙心寺派の寺院

興禅寺(こうぜんじ)は 長野県木曽郡木曽町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は萬松山。町内の長福寺大桑村定勝寺とともに木曽三大寺のひとつ。

興禅寺
所在地 長野県木曽郡木曽町福島字門前5659番地
位置 北緯35度51分11.74秒 東経137度42分9.69秒 / 北緯35.8532611度 東経137.7026917度 / 35.8532611; 137.7026917座標: 北緯35度51分11.74秒 東経137度42分9.69秒 / 北緯35.8532611度 東経137.7026917度 / 35.8532611; 137.7026917
山号 萬松山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
開山 円覚大華
開基 木曾信道
札所等 木曽西国三十三ヶ所霊場十一番
木曽七福神霊場(吉祥天)
法人番号 6100005007628
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歴史

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源義仲(中央)・木曾信道(右)・木曾義康(左)の墓

永享6年(1434年木曾氏十二代の木曾信道が、居館を大桑村須原から木曽福島に遷し、木曾義仲の追善供養のために、鎌倉建長寺五世の円覚大華を迎えて開山したと伝わる。

文正元年(1466年木曾家豐が興禅寺に梵鐘を寄進した。

鐘銘には、以下の文が刻まれている。

壇心離有作々 金匠到無切功 鐘聲廣大 伽藍興隆 群生睡破 利濟無窮 美濃州 慧那郡 木曾庄 萬松山 興禅々寺 住持比丘大壇那 源之朝臣家豐 于時文正元年 丙戌霜月一日

元亀年間(1570~1573年)に、薮原村の郷主であった古畑十右衛門正貫が、四世の茂林[1]を勧請開山に招いて、極楽寺を開創した。

天正年間(1573~1592年)の初頭に木曾義昌が帰依し、次の定書を与えて庇護した。

(義昌朱印) 定 一 興禅寺内理不盡 不可爲殺生事 一 お寺山 不可伐 取草木事 一 雖混寺領他分法外不可有違亂之事 天正九年[2]辛巳 二月吉日

天正10年(1582年)、奈良井宿にある大寶寺を七世の桂嶽祖昌が中興開山したとされるが、当時の興禅寺は五世の東巖の代であった。

天正18年(1590年)、木曾義昌は、徳川家康関東移封に伴い、家康から下総国阿知戸[3]に1万石を与えられて木曽谷を去った。その後、豊臣秀吉の重臣であった石川光吉が木曾代官となったが、木曾氏ゆかりの興禅寺・長福寺 (長野県木曽町)定勝寺の三箇寺に対し、次のように保証した。

木曾谷中寺々 信義ニ非分之義在之間敷候 間可被得其意候 可被得其意候 随分可令馳走候 恐々謹言」 八月廿四日 石川兵蔵 光吉 (判) 長福寺 興禅寺 定勝寺 御道宿中[4]

また同年の細川幽斎の「東國陣道記」にも興禅寺は描かれている。

江戸時代尾張藩の重臣で木曾代官山村良勝の庇護を受け山村甚兵衛家の菩提寺となった。

裏山には、山村良勝以後の山村甚兵衛家の歴代の墓と源義仲(木曾義仲)の印塔、木曾信道及び木曾義昌の墓石[5]がある。

その他将棋の駒型の石塔が11基あるが、刻まれた文字が判読できない状態となっているため詳細は分からないが、木曾氏歴代の墓と伝えられている。

寛永元年(1624年)、山村良勝の家臣の堀尾作左衛門一成が、山村甚兵衛家知行所であった美濃国恵那郡手賀野村松源寺を開基し、興禅寺から桂嶽祖昌を請じて開山した。

寛永8年(1631年)1月、六世の南叔が示寂して桂嶽祖昌が七世となった。

寛永18年(1641年)4月20日、火災により、仏殿・観音堂など併せて焼失した。

正保2年(1645年)、山村義豐の助成により復興し、承応2年(1653年)、鋳鐘が行われ、次いで山門の建立が行われた。

また同年4月、桂嶽祖昌によって久昌院が創建された。

万治3年(1660年)3月、桂嶽祖昌が、開田村に萬年山 随松菴(瑞松寺)を開創したとされる。

桂嶽祖昌は実際には随松菴には住しておらず、その後、八世の周谷大仙、九世の嶙山、十世の南槐、十一世の載道、十二世の東隣が関与したとされるが、いづれも、随松菴には住していない。

正徳4年(1714年)、山門に仁王尊を勧請し、山門楼上に十六羅漢を安置した。

その後、明治昭和にも大火に遭ったため、往時の面影はほとんど残っていない。

昭和28年(1953年)、勅使門が原形どおりに復元されて昔の姿が復活した。

伽藍・境内

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看雲庭

末寺

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参考文献

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  • 『木曽福島町史 第1巻 (歴史編)』 第五章 江戸時代 第十二節 神社・佛閣・社堂 二、興禅寺 p816-828 木曽福島町教育委員会 1982年
  • 『寺と神社 (信州の文化シリーズ)』 興禅寺 p97 信濃毎日新聞社 1981年
  • 『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 郷土出版社

脚注

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  1. ^ 元亀2年2月4日に遷化
  2. ^ 1581年
  3. ^ 千葉県旭市網戸
  4. ^ 定勝寺文書
  5. ^ 木曾義昌は移封先の下総網戸(阿知戸)で亡くなり、子の木曾義利によって水葬にされた。そのため千葉県旭市に墓がある