肝付久兼
肝付 久兼(きもつき ひさかね)は、江戸時代前期から中期にかけての薩摩藩士。喜入肝付氏4代当主。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永18年(1641年) |
死没 | 宝永6年2月8日(1709年3月18日) |
改名 | 伴三郎(幼名)→久兼→活堂(号) |
別名 | 通称:弾正、主殿 |
主君 | 島津光久→綱貴→吉貴 |
藩 | 薩摩喜入領主 |
氏族 | 喜入肝付氏 |
父母 | 父:肝付兼屋、母:島津忠恒娘 |
兄弟 | 久兼、男子、佐多久利 |
妻 | 正室:島津久頼娘 |
子 | 兼柄 |
喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。
寛永18年(1641年)、肝付兼屋の子として生まれる。慶安3年(1650年)、喜入の屋敷を訪問した藩主・島津光久の面前で元服する。家久の外孫であることから、「久」の字を賜り「久兼」と名乗る。寛文7年(1667年)、大目付となる。
寛文10年(1670年)、家老となる。同年、末吉地頭職となる。延宝8年(1680年)、谷山地頭職。天和2年(1682年)、出水地頭職。天和3年(1683年)、藩主・綱貴に従い江戸に下向し、江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。貞享4年(1687年)、綱貴に従い、将軍綱吉に拝謁する。元禄8年(1695年)、高岡地頭職。
宝永4年(1707年)、病を理由に職を辞し、隠居して家督を子・兼柄に譲る。
宝永6年(1709年)2月8日没。享年69。
参考文献
編集- 「喜入村郷土史」