緒方富雄
緒方 富雄(おがた とみお、1901年11月3日 - 1989年3月31日)は、日本の血清学者、医学史学者。血清研究以外にも、病理学、蘭学、出版、社会事業など様々な分野で活躍し、その業績は数多い。緒方洪庵の曾孫にあたる。
経歴
編集1901年(明治34年)、緒方洪庵の本家3代目・緒方銈次郎の三男として大阪府に生まれる[1]。1919年(大正8年)兵庫県立神戸第一中学校を卒業後、第三高等学校 (旧制)を経て[2]、東京帝国大学医学部に進学。1926年(大正15年)に同大を卒業[2]。講師を勤めながら[3]、1932年(昭和7年)医学博士。1936年(昭和11年)東京大学医学部助教授[2]、1949年(昭和24年)東京大学医学部教授[2]、東京大学医学図書館館長を務めた。1962年(昭和37年)に定年退官し[2]、東京大学名誉教授となる[2]。
学外の活動として学術雑誌『医学のあゆみ』(医歯薬出版)第1期編集長を務めたほか、財団法人緒方医学化学研究所を設立した。
アメリカ医師会各名誉会員[2]、日蘭協会副会長、ギリシヤ国コス市名誉市民。
人物
編集専門分野である血清学の研究のほかに、緒方洪庵家に生まれたことから洪庵の伝記編纂など蘭学史・医史の研究を進め、また科学啓蒙の著作を多く残した[2]。なかでも児童からの相談に対する回答を基にした随筆「クシャミと太陽」は、『科学朝日』72号(1947年6月)に掲載(初出)されたのち『少年少女科学名著全集』や『ちくま哲学の森』(6巻)などのアンソロジーに再録された。
受賞歴
編集親族
編集父の緒方銈次郎(1871-1945)は、緒方洪庵の次男・緒方惟準(1843-1909)[4]と佐藤泰然の孫娘・吉重(1851-1927)夫妻の次男で、県立医学校を卒業後、ドイツに5年間留学してミュンヘン大学などで医学を学び、緖方收次郞(銈次郎の叔父)が経営する緖方病院の内科長を務めた[1][5]。1925年に同病院の院長に就任するが、翌年産婦人科で不祥事が起こり、責任を取って辞任、長男の準一に院長を譲ったものの経営不振となり、1929年に閉院した[6]。
母の友香(1875-1927)は三浦安の三女[1]。長兄の緒方準一(1895-1988)は1960年に奈良県立医科大学学長就任(1972年退官)、次兄に緒方安雄がいる。叔父に東京大学医学部薬学科教授緒方章[7]と緒方知三郎。
著書
編集- 緒方系譜考 (緒方銈次郎、1926年)
- 語原ギリシヤ語法 医学術語の語原の理解と製作に必要なギリシア語法の知識 (南山堂書店 1929年)
- 病気の正体 (日本放送出版協会 ラジオ新書 1940年)
- 病気をめぐって (羽田書店 生活の科学新書 1941年)
- 緒方洪庵傳 (岩波書店 1942年、増補版1977年)
- 科学とともに (築地書館 1943年、東京出版 1945年)
- 論文を書く人のために 医学を中心として (日新書院 1943年)
- 蘭学のころ (弘文社 1944年)
- 血清学の領域から (河出書房 1945年)
- からだを護るもの (羽田書店 生活科学新書 1946年)
- みんなも科学を (朝日新聞社 1947年)
- 科学をつくるものの記録 (角川書店 1949年)
- 科学とこころ (河出書房 1951年)
- 梅毒の新しい血清学的検査法 緒方法と梅毒凝集法 (南山堂 1951年)
- そのときどきに (緒方医学化学研究所、1961年)
- 理論血清学 (東京大学出版会、1965年)
- 日本におけるヒポクラテス讃美 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説 (日本医事新報社 1971年)
- 三月四日 科学随想 (雷鳥社 1973年)
- 医学のなかのラテン語あれこれ (医歯薬出版 1982年)
共著・編著
編集- 病理組織學實習の手引き (増補第4版 緒方知三郎共著、金原商店 1930年)
- 病理組織学を学ぶ人々に 実習を受ける学生と研究者のために (訂補7版 緒方知三郎共著 金原商店 1936年)
- 門人がシーボルトに提供したる蘭語論文の研究 (大鳥蘭三郎・大久保利謙・箭内健次共著(日獨文化協會編「シーボルト研究」中の一篇)、岩波書店 1938年)
- 祖国愛と科学愛 フランスの科学者達は語る (編 朝日新聞社 1942年)
- 獨創について (編(緒方、河上徹太郎、丘英通、伊原宇三郎、諸井三郎、渡邊慧の座談記録)、生活社 日本叢書 1945年)
- 生物の話 中等学生のために (合田得輔、服部静夫共著 大阪教育図書 1948年)
- 癌腫の歴史 (緒方知三郎共著 永井書店 1953年)
- 医学年鑑 医学・歯学・薬学・保健衛生の年次総覧 1963年 (勝沼晴雄、大村潤四郎共編 医歯薬出版 1962年)
- 緒方洪庵適々斎塾姓名録 (編集、学校教育研究所、1967年)
- 蘭学と日本文化 (編 東京大学出版会 1971年)
- 江戸時代の洋学者たち (編 新人物往来社 1972年)
- 日本細菌学外史―その三つの断面 (藤野恒三郎・中島健蔵共著、1975年)
- シーボルト「日本」の研究と解説 (岩生成一・斎藤信・箭内健次共著監修 講談社、1977年)
- 医学者の手帖 (森於菟共著 学生社、1978年)
- 大阪の除痘館うつりかわり (緒方正美共著 洪庵記念会、1978年)
- 緒方富雄先生八十賀 記念文集と記録 (同 記念の会 編、非売品、1982年)
- 緒方洪庵のてがみ その一〜五 (適塾記念会、梅溪昇共編 菜根出版、1980年-1996年)
現代語訳・校註
編集脚注
編集- ^ a b c 緒方銈次郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b c d e f g h i j k 内藤修「同学院と緒方富雄先生」『日本臨床検査同学院通信』第35巻春季、日本臨床検査同学院、2010年3月、1-8頁。
- ^ 緒方富雄『出身県別 現代人物事典 西日本版』p834 サン・データ・システム 1980年
- ^ 適塾特別展「緒方惟準の生涯」-没後100年記念展大阪大学(2009年6月2日)
- ^ 森川潤「ドイツ医学の受容過程-ミュンヘン大学留学生を中心として」『教育学研究』第52巻第4号、日本教育学会、1985年、374-384頁、doi:10.11555/kyoiku1932.52.374、ISSN 0387-3161、NAID 130003563724。
- ^ 『洪庵・適塾の研究』梅溪昇、思文閣出版, 1993、p494, p505
- ^ 津田恭介, 伊藤四十二「緒方 章教授の喜寿を記念して」『藥學雜誌』第84巻第10号、日本薬学会、1964年、905-910頁、doi:10.1248/yakushi1947.84.10_905、ISSN 0031-6903、NAID 130007282867。
- ^ “緒方洪章絵画展 ―色彩の調べ―”. WAKO (2021年). 2022年9月18日閲覧。
関連項目
編集- 緒方富雄賞
- 日本臨床衛生検査技師会
- 角尾晋 - 原爆被災時の長崎医科大学学長。被爆当時、緒方を通じて東大医学部図書室の蔵書を借用しており、被爆により重傷を負っていたにもかかわらず、借用した書籍の返却を厳命した。彼の死後、件の書籍は無事に緒方に返却された。