筑波嶺清平
筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1948年11月20日)は、現在の茨城県稲敷郡河内町出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 清平(かとう せいへい)。身長170cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目(1933年5月場所)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り。
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筑波嶺 清平 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 筑波嶽 → 筑波嶺 清平 | |||
本名 | 加藤 清平 | |||
生年月日 | 1909年4月1日 | |||
没年月日 | 1948年11月20日(39歳没) | |||
出身 | 茨城県稲敷郡河内町 | |||
身長 | 170cm | |||
体重 | 105kg | |||
BMI | 36.33 | |||
所属部屋 | 錦島部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、右四つ、寄り、吊り | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭2枚目 | |||
生涯戦歴 | 144勝130敗(33場所) | |||
幕内戦歴 | 52勝73敗(11場所) | |||
データ | ||||
初土俵 | 1927年5月場所 | |||
入幕 | 1933年1月場所 | |||
引退 | 1938年5月場所 | |||
備考 | ||||
2019年8月4日現在 |
人物
編集千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)を出て、錦島部屋に入門。1927年5月場所に初土俵を踏む。1932年5月場所に新十両、十両を2場所で通過後、1933年1月場所に新入幕。この場所、春秋園事件からの復帰力士たちと伍して7勝4敗の好成績を挙げ、翌場所は西前頭2枚目まで番付を上げたが3勝8敗に終わった。その後は幕内中堅として、左四つからの寄りや吊りを得意とした。横綱男女ノ川の露払いを務めたこともある。1938年5月場所限りで廃業し、相撲協会には残らなかった。1948年11月20日に39歳で死去した。
主な成績
編集- 通算成績:144勝130敗 勝率.526
- 幕内成績:52勝73敗 勝率.416
- 現役在位:33場所
- 幕内在位:11場所
場所別成績
編集春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1927年 (昭和2年) |
x | x | (前相撲) | 序ノ口 – |
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1928年 (昭和3年) |
西序ノ口16枚目 6–0 |
西序ノ口2枚目 4–2 |
西序二段10枚目 3–3 |
西序二段10枚目 5–1 |
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1929年 (昭和4年) |
東三段目21枚目 4–2 |
東三段目21枚目 2–4 |
東三段目19枚目 5–1 |
東三段目19枚目 3–3 |
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1930年 (昭和5年) |
東幕下28枚目 2–4 |
東幕下28枚目 1–5 |
西三段目17枚目 4–2 |
西三段目17枚目 2–4 |
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1931年 (昭和6年) |
東三段目12枚目 5–1 |
東三段目12枚目 5–1 |
西幕下14枚目 2–4 |
西幕下14枚目 4–2 |
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1932年 (昭和7年) |
東幕下4枚目 5–3 |
東幕下4枚目 6–4 |
東十両7枚目 7–4 |
東十両7枚目 8–3 |
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1933年 (昭和8年) |
西前頭6枚目 7–4 |
x | 西前頭2枚目 3–8 |
x | ||
1934年 (昭和9年) |
西前頭5枚目 4–7 |
x | 東前頭11枚目 6–5 |
x | ||
1935年 (昭和10年) |
西前頭8枚目 5–6 |
x | 西前頭9枚目 5–6 |
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1936年 (昭和11年) |
東前頭10枚目 6–5 |
x | 東前頭8枚目 2–9 |
x | ||
1937年 (昭和12年) |
東前頭15枚目 4–7 |
x | 東十両3枚目 9–4 |
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1938年 (昭和13年) |
東前頭13枚目 6–7 |
x | 西前頭17枚目 引退 4–9–0 |
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各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 1932年1月番付では幕下東18枚目
参考文献
編集- 小池謙一『大相撲星取大鑑昭和編第2巻』
- 『大相撲人物大事典』(ベースボール・マガジン社刊)