竹袋
竹袋(たけふくろ)は、千葉県印西市の大字。郵便番号270-1325[2]。
竹袋 | |
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北緯35度49分53.4秒 東経140度9分29.8秒 / 北緯35.831500度 東経140.158278度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 印西市 |
地区 | 木下地区 |
標高 | 30 m |
人口 | |
• 合計 | 430人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
270-1325[2] |
市外局番 | 0476[3] |
ナンバープレート | 習志野 |
※座標・標高は竹袋青年館付近 |
地理
編集小字
編集小字は以下の通り[4]。
- 大森境(おおもりさかえ)
- 呑内(のみうち)
- 木戸脇(きどわき)
- 皿沼(さらぬま)
- 寺脇(てらわき)
- 弥治右ヱ門(やじえもん)
- 台(だい)
- 稲荷峠(いなりとうげ)
- 川崎(かわさき)
- 新堀込(にいぼりこみ)
- 鍛冶屋下(かじやした)
- 氏神前(うじがみまえ)
- 根切(ねぎり)
- 天神台(てんじんだい)
- 井の内作(いのうちざく)
- 五ノ神台(ごのかみだい)
- 三ノ割(さんのわり)
- 中割(なかわり)
- 鳴沢(なるさわ)
- 下鳴沢(しもなるさわ)
- 石神前(いしがみまえ)
- 上中埜原(かみなかやわら)
- 下埜原(しもやわら)
歴史
編集江戸時代は竹袋村であり、下総国印旛郡のうち。印西領、印西筋に属す。もと竹渓村、1616年(元和2年)から竹袋村となったともいう。
1663年(寛文3年)から幕府領、1698年(元禄11年)から旗本阿部氏・三枝氏の相給、1701年(元禄14年)から佐倉藩領、1723年(享保8年)から淀藩領。村高は、「元禄郷帳」547石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに535石余。1723年(享保8年)「淀領郷村帳」によれば、小物成として夫役1貫254文余・百姓林銭永1貫730文・船役銭12貫254文・木下河岸運上永10貫文・糠藁代永250文・山銭鐚12貫374文を上納(田辺家文書)。1772年(明和9年)指出帳写によれば、反別田33町1反余・畑屋敷9町2反余・新田14町7反余・新畑18町9反余、ほかに山畑20町3反余・百姓林34町余、米積場・諸荷物附揚附下場があり、茶船20・小船12・酒屋通船1・渡場馬渡船1など、家数191・人数708、馬70(吉岡家文書/県史料下総)。また木下河岸では銚子方面から鮮魚が陸あげされ、江戸へ向けて輸送された。1679年(延宝7年)からは、鹿島・香取・息栖の三社参詣に、同河岸からの木下茶船が活躍した。1873年(明治6年)千葉県に所属。神社は稲荷神社など。寺院は天台宗三宝院(印旛郡誌)。
年表
編集世帯数と人口
編集2017年(平成29年)10月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
竹袋 | 178世帯 | 430人 |
小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
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全域 | 印西市立木下小学校 | 印西市立印西中学校 |
施設
編集- 印西市総合福祉センター
- 印西地区消防組合印西消防署
- 竹袋稲荷神社
- 三寶院
- 千葉県水道局木下取水場
- 豊作稲荷神社
交通
編集鉄道
編集道路
編集脚注
編集- ^ a b “印西市の人口と世帯数”. 印西市 (2017年11月2日). 2017年11月13日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月13日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年11月13日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 1449頁
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 530頁
- ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 531頁
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 303頁
- ^ “印西市立小・中学校の通学区域”. 印西市 (2017年4月4日). 2017年11月13日閲覧。