石河正章
石河 正章(いしこ まさあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第4代当主。名字を石川から石河に改めた。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 貞享元年(1684年) |
死没 | 宝暦3年7月28日(1753年8月26日) |
改名 | 幸七郎、大八郎(幼名)→正章 |
別名 | 靱負、大炊(通称) |
官位 | 従五位下、出羽守 |
主君 | 徳川吉通→五郎太→継友→宗春 |
藩 | 尾張藩家老 |
氏族 | 石河氏(美濃石川氏) |
父母 | 父:石川章長 |
兄弟 | 正章、鏡嶋正信、章貴、竹腰正武、政朝、章治 |
子 | 忠喜、光當、貞貴(旗本石河貞固養子) |
略歴
編集貞享元年(1684年)、尾張藩家老石川章長の子として生まれる。宝永3年(1706年)、父の隠居により家督を相続。万石格、家老となる。
享保元年(1716年)、藩主継友の許しを得て、祖父正光の代から途絶えている、将軍家への参府御暇御礼(参勤と帰国の際の将軍家への拝謁)の再開を幕府に願出た。曽祖父光忠が徳川家康の命により、徳川義直に付属せられた経緯から、石河家は、将軍家への拝謁を許された筋目の家柄であったが、祖父正光が幼くして家督相続して以降、参府御暇御礼が途絶えていた。藩主継友の命で、尾張藩江戸家老大道寺直秀が、幕府老中井上正岑と交渉した結果、これが認められる。享保2年(1717年)3月、正章が江戸に出府し、江戸城で将軍徳川吉宗に拝謁を許される。これが先例となり代々の当主に受け継がれた。享保4年(1719年)、従五位下出羽守に叙任。享保11年(1726年)、名古屋への参勤のために、木曽川に駒塚渡しを開設した。
享保16年(1731年)6月、隠居して家督を嫡男忠喜に譲る。宝暦3年(1753年)7月28日死去。享年70。
参考文献
編集- 『名古屋市史』
- 岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究 第一篇』