田村節蔵
田村 節蔵(たむら せつぞう[1]、1889年(明治22年)7月12日[2] - 1943年(昭和18年)7月25日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功四級[1][3]。
田村 節蔵 | |
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生誕 |
1889年7月12日 日本 鳥取県 |
死没 | 1943年7月25日(54歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集鳥取県出身[2]。陸軍士官学校第25期、陸軍大学校第36期卒業[2]。1923年(大正12年)8月、陸軍歩兵大尉に進級し[4]、1924年(大正13年)9月時点で歩兵第59連隊附の任にあった[4]。1925年(大正14年)9月時点で歩兵第59連隊中隊長となり[5]、1926年(大正15年)8月には陸軍運輸部附勤務を兼ねた[6]。1927年(昭和2年)7月に陸軍運輸部部員となり[7]、1928年(昭和3年)8月には陸軍歩兵少佐進級と同時に陸軍運輸部附に移り[8]、1929年(昭和4年)8月には歩兵第75連隊大隊長に就任した[9]。1931年(昭和6年)8月に陸軍運輸部部員に戻り[10]、1933年(昭和8年)8月に陸軍歩兵中佐に進級した[11]。1934年(昭和9年)3月には第9師団参謀に転じ[12]、1935年(昭和10年)3月に歩兵第7連隊附[13]、1936年(昭和11年)6月に第16師団参謀と歴任した[14]
1937年(昭和12年)8月2日、陸軍歩兵大佐進級と同時に第1独立守備隊参謀(関東軍[15][16])に着任した[1]。1938年(昭和13年)7月に歩兵第85連隊長(中支那派遣軍・第22師団・第22歩兵団)に転じ日中戦争に出動[1][2]。杭州を根拠地とし、江南作戦などで奮闘した[2]。1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将進級と同時に中支那碇泊場監(船舶輸送司令部[17])に着任した[1][2]。1942年(昭和17年)7月に第7歩兵団長(北部軍・第7師団)に転じ[2]、北海道の守備に任じていたが[2]、1943年(昭和18年)7月25日に死去[1][2]。同日任陸軍中将[1]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g 外山 1981, 338頁.
- ^ a b c d e f g h i j 福川 2001, 465頁.
- ^ 『官報』第5033号「彙報」1943年10月21日。
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正13年9月1日調415頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正14年9月1日調378頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正15年9月1日調363頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和2年9月1日調363頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調319頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和4年9月1日調298頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和6年9月1日調204頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和8年9月1日調162頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和9年9月1日調146頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和10年9月1日調135頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調125頁
- ^ 外山・森松 1987, 433頁.
- ^ 外山・森松 1987, 443頁.
- ^ 外山・森松 1987, 726頁.
参考文献
編集- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。