海東村
日本の熊本県下益城郡にあった村
海東村(かいとうむら)は、熊本県中部に位置していた村。
かいとうむら 海東村 | |
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海東村役場(昭和20年代) | |
廃止日 | 1958年3月31日 |
廃止理由 |
新設合併 小川町、海東村、益南村 → 小川町 |
現在の自治体 | 宇城市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 熊本県 |
郡 | 下益城郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 18.96 km2. |
総人口 |
4,235人 (1957年) |
隣接自治体 | 下益城郡小川町、益南村、豊野村、中央村、八代郡泉村、東陽村 |
海東村役場 | |
所在地 |
〒869-0612 熊本県下益城郡海東村南海東永割2045-1 |
座標 | 北緯32度34分58秒 東経130度44分33秒 / 北緯32.58267度 東経130.74247度座標: 北緯32度34分58秒 東経130度44分33秒 / 北緯32.58267度 東経130.74247度 |
ウィキプロジェクト |
現在の熊本県宇城市の海東地区(小川町東海東、小川町西海東、小川町南海東、小川町北海東)にあたる。元寇を描いた蒙古襲来絵詞で有名な、鎌倉時代の御家人 竹崎季長の領地として知られる。
1958年(昭和33年)3月31日、小川町・益南村と合併し(新)小川町となったため自治体としては消滅した。2005年(平成17年)1月15日、さらに小川町は、宇土郡三角町・不知火町および下益城郡松橋町・豊野町と合併し現在の宇城市となった。
歴史
編集教育
編集神社・仏閣
編集名所・旧跡・文化財
編集海東村の口碑・傳説
編集海東村の口碑・傳説(かいとうむらのこうひ・でんせつ)とは、海東村に、古くからのこる言い伝え、伝説類である。
→詳細は「海東村の口碑・傳説」を参照
俳句
編集- てらばるにかかる雲なし村の秋
- 紅梅や経蔵古き正覚寺
- 冬枯れや石垣多き峽の村
出身・関係著名人
編集- 源為朝(鎮西八郎)1139 - 1170 伝説が残る。海東村の口碑・傳説(城)
- 竹崎季長 1246 - 鎌倉時代の御家人
- 白石通泰 - 鎌倉時代の御家人
- 篠原重之 - 1693 武将木村重成の弟
- 藤岡覚音 1830 - 1907 正覚寺第13世住職
- 藤井一瓠 1843 - 1923 教育家
- 高野忠太 1870 - 1927 教育家
- 富永末喜 1883 - 1935 陸軍大佐
- 広田哲堂 1884 - 1958 神職
- 稗方弘毅 1887 - 1973 元秋田県知事
- 伊豆富人 1888 - 1978 元衆議院議員、熊本日日新聞社長。父親が海東村出身
- 西澤喜義 1888 - 1979 元海東村長
- 医者の和田兄弟 南海東出身の4人揃って医学博士
- 石橋初雄 1903 - ブラジル農園主
- 高野忠男 1906 - 1987 元兵庫県副知事、姫路市助役
- 水本光任 1914 - 1991 サンパウロ新聞社長
- 中村公力 1922 - 元熊本県議会副議長
- 守田格 1930 - 元小川町長
- 松永信雄 1931 - 元小川町長
- 守田憲史 1959 - 現宇城市長
脚注
編集- ^ “海東保育園(公式HP)”. 2019年12月14日閲覧。
- ^ “小園横穴古墳群(宇城市HP)”. 2014年8月22日閲覧。
- ^ “塔の瀬石橋(宇城市HP)”. 2014年8月22日閲覧。
- ^ “木立山阿弥陀来迎碑(宇城市HP)”. 2014年8月22日閲覧。
- ^ “筒田越十三仏像板碑(宇城市HP)”. 2014年8月22日閲覧。
- ^ “峠の岩清水(宇城市HP)”. 2020年6月12日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典43 熊本県』角川書店、1987年、1035p
参考文献
編集- 森本一瑞『肥後国史 巻之十三』活版舎、1884年
- 下益城郡教育支会編『下益城郡誌』1922年、(名著出版復刻、1973年)
- 海東村史編纂委員会編纂『海東村史』海東村役場、1952年
- 海東小学校創立百周年記念事業期成会『海東小学校創立百周年記念誌』海東小学校、1976年
- 小川町史編纂委員会編纂『小川町史』小川町役場(熊本県)、1979年
- 熊本日日新聞編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年
- 日本歴史地名大系44『熊本県の地名』平凡社、1985年
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典43 熊本県』角川書店、1987年
- 小川町教友会編纂『小川のむかしばなし』小川町教友会、2001年