浦ノ濱栄治郎
浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日 - 1945年10月30日[1])は、新潟県三島郡(現在の小千谷市)出身で浦風部屋に所属した大相撲力士。本名は滑川 丑五郎(なめりかわ うしごろう)、旧姓は丸山。身長171cm、体重101kg。得意手は左四つ、吊り。最高位は関脇。
人物
編集新潟県出身。板前修業に上京するも県人の財閥より体格より勧められ、相撲界へ浦風部屋へ入門。1906年5月序ノ口。1911年2月十両に昇進、1913年1月新入幕。6勝2敗1分1預で優勝旗手となる。均整の取れた体格で、吊りをはじめとする派手な取り口は「浦さま」と呼ばれた美貌とあわせ、女性に人気が有った[2]。大物食いとしても鳴らして花形力士。1913年5月に駒ヶ嶽、1914年5月に大関西ノ海、1916年5月に大錦を破った。1917年には師匠の死去により、二枚鑑札で浦風を襲名。1922年1月引退。浦風部屋を継承し、太郎山、兼六山らを育てる。料亭経営のため、1930年廃業した。
略歴
編集主な成績
編集- 通算成績:70勝77敗53休3分9預 勝率.476(24場所)
- 幕内成績:58勝70敗53休2分7預 勝率.453(19場所)
- 各段優勝:十両1回(1912年5月場所)
場所別成績
編集春場所 | 夏場所 | |||||
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1906年 (明治39年) |
x | 西序ノ口19枚目 – |
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1907年 (明治40年) |
西序二段13枚目 – |
西三段目46枚目 – |
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1908年 (明治41年) |
東三段目39枚目 – |
西三段目29枚目 – |
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1909年 (明治42年) |
西三段目5枚目 – |
東幕下37枚目 – |
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1910年 (明治43年) |
東幕下29枚目 – |
東幕下5枚目 3–1 2預 |
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1911年 (明治44年) |
東十両9枚目 3–2 |
西十両4枚目 2–4 1分 |
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1912年 (明治45年) |
西十両13枚目 2–1 1預 |
西十両7枚目 優勝 5–0 1預 |
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1913年 (大正2年) |
西前頭17枚目 6–2 1分1預 |
東前頭2枚目 5–4–1 |
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1914年 (大正3年) |
東前頭3枚目 0–5–5 |
西前頭9枚目 5–4–1 |
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1915年 (大正4年) |
西前頭筆頭 5–2 1分2預 |
西関脇 4–6 |
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1916年 (大正5年) |
西前頭2枚目 3–3–4 |
西小結 2–6 2預 |
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1917年 (大正6年) |
東前頭6枚目 2–6 1分1預 |
東前頭9枚目 2–5–3 |
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1918年 (大正7年) |
西前頭11枚目 2–1–7 |
西前頭6枚目 0–4–6 |
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1919年 (大正8年) |
西前頭12枚目 0–0–10 |
西前頭18枚目 5–0–5 |
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1920年 (大正9年) |
西前頭12枚目 6–4 |
東前頭7枚目 2–3–5 |
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1921年 (大正10年) |
東前頭13枚目 5–4–1 |
東前頭7枚目 4–6 |
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1922年 (大正11年) |
東前頭8枚目 引退 0–0–10 |
x | ||||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 幕下以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。
改名歴
編集出典
編集- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 30頁
- ^ 浅坂さんの「ニックネーム力士列伝」〜その3〜 おすもうさん 2021年4月16日 (2023年2月27日閲覧)