池田博道

江戸時代中期から後期の岡山藩家老。建部池田家(森寺池田家)9代。池田俊清の四男嫡男

池田 博道(いけだ ひろみち)は、江戸時代中期から後期にかけての岡山藩家老。通称は弁之進、刑部、右膳、隼人。建部池田家(森寺池田家)9代当主。

 
池田博道
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享5年4月2日1748年4月29日
死没 文化9年8月4日1812年9月9日
改名 民之助、清煕、博道
別名 弁之進、刑部、右膳、隼人(通称)
墓所 岡山県岡山市北区建部町の阿光山建部池田家墓所
主君 池田治政斉政
備前岡山藩
氏族 池田氏(長政流)
父母 父:池田俊清、母:上田重羽次女登和子
兄弟 篤子(朽木真綱室)、勝敬乾長孝、久子(池田長利室)、清號、博道
伊木忠知三女仙
真子(乾長徳室)、博教伊木忠真永見國誠、岩代(土倉一静室)、方智(実は博教庶子)
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家系

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建部池田家(森寺池田家)は池田恒興の育ての親の森寺秀勝に始まる家で、恒興の三男池田長吉の三男長政が実兄の3代森寺長貞の養子となって池田氏を称し、備前建部1万4000石(6代宗春以降は1万石)を領した。代々岡山藩家老。[1]明治39年(1906年)博愛が男爵に叙され華族となる。庶子は森寺氏や森氏を称す。

略歴

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延享5年(1748年)、岡山藩家老池田俊清の四男として誕生。母は広島藩家老上田重羽の次女登和子。幼名は民之助。初名清煕。

嫡男だった兄・勝敬が早世したため、宝暦13年(1763年)に16歳で嫡男となる。明和2年(1765年)4月、父の隠居により家督を継ぐ。

天明8年(1788年)、仕置家老となる。寛政8年(1796年)、藩政改革を志す藩主池田斉政に藩財政悪化の責任を問われ、仕置職を辞職する。

寛政10年(1798年)、御津郡中田村(後の建部村)の別邸に、家臣瀧野善左衛門等に命じて、家中子弟の文武修練のため学問所を設置する。成績の優秀なものには加増し、劣るものには禄を減じた。また、指導にあたる教授には、家禄の他に職俸を給した。[2]

享和3年(1803年)、隠居し嫡男の博教に家督を譲る。文化9年(1812年)8月4日没。墓所は阿光山建部池田家墓所(岡山県岡山市北区建部町)。次男の忠真は正室仙の実家伊木家に養子入りしている。

系譜

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出典

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  1. ^ 『岡山縣御津郡誌』
  2. ^ 『岡山県教育史』

参考文献

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  • 『池田老臣累記』
  • 『備前家老略伝』
  • 男爵池田博愛系譜』
  • 『岡山県教育史』
先代
池田俊清
建部池田家(森寺池田家)
9代
1765年 - 1803年
次代
池田博教