池田俊清
江戸時代中期の岡山藩家老。建部池田家(森寺池田家)8代。子に池田勝敬(-1762、長男、政之介)、乾長孝(次男)
池田 俊清(いけだ としきよ)は、江戸時代中期の岡山藩の家老。通称は右膳、隼人。建部池田家(森寺池田家)8代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永4年12月2日(1707年12月25日) |
死没 | 明和2年6月9日(1765年7月26日) |
改名 | 七介、俊清 |
別名 | 右膳、隼人(通称) |
墓所 | 岡山県岡山市北区建部町の阿光山建部池田家墓所 |
主君 | 池田継政、宗政、治政 |
藩 | 備前岡山藩 |
氏族 | 日置氏、池田氏(長政流) |
父母 |
日置忠明、理性院 池田太寅 |
兄弟 |
日置忠昌、山脇源太夫、池田信延室、 森臻、今枝恒明、利恭、俊清 |
妻 | 上田主水妹 |
子 | 勝敬、乾長孝、博道、里子 |
略歴
編集宝永4年(1707年)12月2日、岡山藩家老日置忠明の子として誕生。母は理性院。幼名は七介。
享保8年(1723年)、従兄の家老池田太寅の養子となり、建部池田家を相続する。同年、藩主池田継政に御目見する。通称を右膳と名乗る。寛保3年(1743年)閏4月、仕置家老となり通称を隼人と改める。宝暦6年(1756年)、実母の理性院が死去する。宝暦12年(1762年)、嫡男の政之介(勝敬)が死去し、四男の民之助(清煕)を新たに嫡男とする。宝暦14年(1764年)、牛窓で朝鮮通信使の接待役を務める。明和2年(1765年)4月、隠居し清煕に家督を譲る。同年6月9日没。墓所は阿光山建部池田家墓所(岡山県岡山市北区建部町)。
次男の長孝は鳥取藩家老乾家を継いでいる。また、長男勝敬の許婚であった里子(土肥経平の娘)を養女として公家五条為俊に嫁がせている。
系譜
編集出典
編集- 『池田老臣累記』
- 『備前家老略伝』
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