桜井忠胤
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桜井 忠胤(櫻井 忠胤[1]、さくらい ただたね、明治14年(1881年)7月19日[2] - 昭和6年(1931年)8月28日[3])は、明治時代から昭和時代初期の従三位子爵[3]。摂津尼崎藩最後の第7代藩主で尼崎藩知事の松平忠興[5]改め櫻井忠興の三男、母錦子(きん)嘉永3年5月生まれ[2])は忠興の継室で小笠原忠幹[注釈 1]の娘。忠胤の初名は善之助といった。妻は子爵本多忠敬の娘の鷹子[6]。母方の叔父は小笠原忠炊[2]。
学習院中等科では嘉仁親王の学友であった。明治28年(1895年)、父の忠興が死去し子爵を襲爵。旧遠州掛川藩主[2]、貴族院子爵議員などを務めた[要出典]。長女[7]と二女をそれぞれ南部利克子爵の子息へ嫁がせる。昭和6年(1931年)薨去[3]。享年50。墓所は青山霊園[要出典]。子の桜井忠養が子爵を襲爵した[8]。
家族
編集栄典
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 「さ之部 §櫻井忠胤」『人事興信録』(初版)、1911年(明治36年)4月、973(コマ番号0557.jp2)頁。doi:10.11501/779810 。2022年3月12日閲覧。国立国会図書館の近代デジタルライブラリー。インターネット公開。
- ^ a b c d “櫻井忠胤(初版)”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学大学院 (1903年4月). 2022年3月12日閲覧。
- ^ a b c 「彙報 | 有爵者薨去子爵櫻井忠胤」『官報』1931年8月31日、811頁、doi:10.11501/2957870、国立国会図書館書誌ID:2957870。
- ^ 『新修芦屋市史』(pdf)国立国会図書館、1971年11月10日 。2022年3月10日閲覧。「本文:(前略)尼崎藩主 桜井忠興 (慶応四年二月松平姓を桜井姓に改める)は尼崎藩知事となり、三条村・津知村は旧藩領村々とともにその管下に属した。(後略)」
- ^ 『新修芦屋市史』本篇、同書は国立国会図書館デジタルコレクションに収蔵[4]。
- ^ a b c 名古屋大学大学院法学研究科 1928, 10259 櫻井忠胤
- ^ a b c d “南部利克(第8版)”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学大学院. 2022年3月12日閲覧。
- ^ 『官報』第1430号、1931年10月3日。
- ^ 桜井松平家 松平内膳正信定家 | 名字・名前・家系図/家紋ニュース
- ^ “阪本勝「わが牧歌」『阪本勝著作集』第三巻、阪本勝著作集刊行委員会、47-49頁”. ネットミュージアム兵庫文学館. 兵庫ゆかりの作品. 兵庫県立美術館. 2022年3月10日閲覧。
- ^ 長良川画廊(運営管理): “京都大学心茶会/久松真一記念館”. www.nagaragawagarou.com. 久松真一記念館. 2022年3月10日閲覧。
- ^ “久保田正治 (第8版)”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学大学院. p. ク17. 2022年3月12日閲覧。
- ^ 名古屋大学大学院法学研究科 1928, 7800 久保田正治
- ^ 「叙任及辞令 | 叙従五位 子爵櫻井忠胤」『官報』第5415号、1901年7月22日、353頁、doi:10.11501/2948714。 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「叙任及辞令 | 叙正四位 従四位子爵櫻井忠胤」『官報』第2132号、1919年9月11日、232頁、doi:10.11501/2954245。国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
編集- 名古屋大学大学院法学研究科: “人事興信録データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp (1928年7月). 2022年3月10日閲覧。
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ(2004年)
日本の爵位 | ||
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