松平忠興
松平 忠興(まつだいら ただおき)は、江戸時代後期の譜代大名。摂津国尼崎藩の第7代(最後)の藩主。桜井松平家16代当主。官位は従五位下・遠江守、兵庫頭。明治維新期に櫻井に改姓し、維新後に子爵。
松平忠興 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 弘化5年1月8日(1848年2月12日) |
死没 | 明治28年(1895年)4月29日 |
改名 | 与七郎(幼名)→松平忠興→櫻井忠興 |
別名 | 通称:善之助 |
墓所 | 兵庫県尼崎市大物町の深正院 |
官位 | 従五位下・遠江守、兵庫頭、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 摂津尼崎藩主 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平忠栄、母:松平宗発の娘・洵子 |
兄弟 | 忠興、万里小路通房後室ら |
妻 |
松平光則の次女・茅子 小笠原忠幹の長女・きん |
子 | 桜井忠胤ら |
生涯
編集弘化5年(1848年)1月8日、第6代藩主・松平忠栄の七男として誕生した。
文久元年(1861年)8月6日、父の隠居により家督を譲られる。泊園書院(現・ 関西大学)に学び[1]、慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では新政府に恭順し、所領を安堵された。2月に徳川家との訣別の証として、姓を桜井と改める。
明治2年(1869年)の版籍奉還で尼崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。明治6年(1873年)1月、東京へ移住する。明治10年(1877年)、博愛社(後の日本赤十字社)の設立者のうちの一人となった。尼崎城址の一角に建立された桜井神社には博愛社の記念碑がある。明治17年(1884年)に子爵に叙せられた。
明治28年(1895年)4月29日に死去、享年48。
系譜
編集脚注
編集- ^ 松平忠興(まつだいら・ただおき 1848-1895)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (尼崎)桜井家初代 1884年 - 1895年 |
次代 桜井忠胤 |