松平忠正
戦国時代から安土桃山時代の武将。桜井松平家4代。三河碧海郡桜井城主。
松平 忠正(まつだいら ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。桜井松平家4代当主。通称は与一郎[2][3]。三河国碧海郡桜井城主(愛知県安城市桜井町)。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文13年(1544年) |
死没 | 天正5年閏7月20日(1577年9月2日) |
別名 | 通称:与一郎 |
神号 | 甘美毘古伊都都賀須命[注釈 1] |
戒名 | 廣大院眞誉華岳道春大居士 |
墓所 | 桜井山菩提寺(愛知県安城市桜井町) |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平家次 |
兄弟 | 忠正、忠吉、忠広、菅沼定盈継室 |
妻 | 多劫姫(久松俊勝娘) |
子 | 家広 |
略歴
編集3代当主・松平家次の子として誕生[2][3]。桜井松平家は祖の信定の代から安祥松平家に敵対的であり、忠正も当初は三河一向一揆では松平家康(徳川家康)と戦うも敗れ、以後は家康に仕えた。
永禄11年(1568年)の遠江国掛川城攻略、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに従軍した。
元亀4年(1573年)1月からの野田城の戦いでは、野田城主・菅沼定盈と共に籠城するが、水の手を断たれ、定盈とともに武田方の捕虜となった[2](『寛政譜』によれば、定盈・忠正の命と引き換えに兵卒を助命する交渉を行おうとしたが、信玄に捕らえられたという[2])。その後、徳川方に出されていた山家三方衆の人質と交換され[2]、菅沼定盈と共に帰参した[2]。天正3年(1575年)の長篠の合戦では武田の軍兵若干を討ち取り、織田信長の感賞を受けた[2]。
天正5年(1577年)閏7月20日に死去した[2]。享年34[2]。
子の亀千代(松平家広)が幼少であったため[4]、弟の松平忠吉が家督を継承した。なお、忠吉も天正10年(1582年)に若くして死去しており[4]、家督を継いだ家広を弟の松平忠広が後見した[4]。
系譜
編集忠正の死後、多劫姫は忠正の弟である松平忠吉に再嫁し、忠吉との間に松平信吉・松平忠頼の兄弟を儲けた[4]。忠吉死後は保科正直に再嫁した[4]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第五
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/23
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)