松平宗允
松平 宗允(まつだいら むねただ)は、丹後国宮津藩4代藩主。本庄松平家7代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永9年6月30日(1780年7月31日) |
死没 | 文化13年6月14日(1816年7月8日) |
改名 | 富次郎、本蔵(幼名)、宗允 |
別名 | 資貞、資允 |
戒名 | 昇安院殿常誉寂照坦然大居士 |
墓所 |
東京都台東区浅草の安養寺 京都府宮津市金屋谷の大頂寺 |
官位 | 従五位下伯耆守、大隅守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 丹後宮津藩主 |
氏族 | 本庄松平家 |
父母 | 松平資承、結城氏 |
兄弟 |
資統、宗允、宗発、資恭、安藤直馨、 資克、資譲、富田知良正室、 堀田一知正室、歌子、朽木綱方正室、 水野忠啓正室 |
妻 | 松平輝和娘 |
子 |
宗秀、内田正容正室、貞子、 諏訪頼保正室、諏訪頼保継室、織田長恭継室ら |
生涯
編集安永9年(1780年)6月30日(異説として天明2年(1782年)5月3日)、3代藩主松平資承の次男として江戸で生まれる。寛政8年(1796年)4月26日、兄の資統が病弱だったため廃嫡されたことで世子となる。6月13日、将軍徳川家斉に御目見した。11月17日、父資承の隠居により家督を継いだ。12月19日、従五位下・伯耆守に叙任した。
文化5年(1808年)8月6日、隠居し、養子宗発(実弟)に譲った。文化13年(1816年)6月14日に江戸で死去、享年37。