李寅応
李 寅応(イ・インウン、朝鮮語:이인응、1832年 - 1895年)は、李氏朝鮮の文官。本貫は全州李氏。初諱は「世輔」。諱は「寅応」[1]。字は「左輔」。諡は「忠正」。李端和の第一子。
李寅応 | |
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本貫氏派 | 全州李氏全州李氏綾原大君派 |
続柄 | 李端和第一子 |
初諱 | 世輔 |
生涯
編集1851年8月9日豊渓君の家督相続を受けて王族の身位を得た。諱を「世輔」から「晧」に改諱して、慶平君に封爵、昭義大夫[2]の官位を受けた[3][4]。 9月16日中義大夫[5]に昇格した[6]。10月2日五衛都摠府副摠管に任官した[7]。10月24日承憲大夫[8]に昇格した[9]。1852年1月10日宗簿寺纂修監印校正官に任官した[10]。1月18日崇憲大夫[11]に昇格した[12]。2月2日嘉徳大夫[13]に昇格した[14]。3月10日五衛都摠府都摠管に異動した[15]。6月4日宜徳大夫[16]に昇格した[17]。6月21日五衛都摠府都摠管の任期が終了した[18]。1853年4月7日興禄大夫[19]に昇格した[20]。8月14日鈴原府大夫人墓所の酌献礼を代行した[21][22]。12月22日顕禄大夫[23]に昇格した[24]。1854年1月16日五衛都摠府都摠管に任官した[25][26]。3月4日五衛都摠府都摠管の任期が終了した[27]。3月28日五衛都摠府都摠管に任官した[28]。1855年8月27日宗戚執事に任官した[29]。1856年6月11日五衛都摠府都摠管の任期が終了した[30]。1857年1月8日五衛都摠府都摠管に任官した[31]。1月19日五衛都摠府都摠管を辞官した[32]。8月15日冬至使兼謝恩使正使に任官した[33]。8月19日自身が痰湿体質のため、冬至使兼謝恩使正使の交代要請を上疏したが、許可されなかった[34]。1859年4月25日司饔院提調に任官した[35]。8月28日五衛都摠府都摠管に任官した[36]。11月14日五衛都摠府都摠管の任期が終了した[37]。1860年12月13日言動が不謹慎極まりないとして、豊渓君の家督相続を無効として、慶平君の爵号を剥奪されて王族の身位を喪失し、諱を「晧」から「世輔」に改諱させられた[38][39]。12月17日全羅南道莞島郡薪智面薪智島に流刑になり、囲籬荐棘の扱いを受けた[40]。梅泉野録では安東金氏の憎悪を買い、流刑時には瀕死状態の時も多々あったという。
1864年2月20日出生地に流刑地が変更された[41][42]。1865年1月27日釈放された[43]。5月28日敦寧府同知事、宗親府宗正卿に任官した[44]。5月31日次回の文官職任官まで刑曹参判の官職名義を付与された[45]。6月14日義禁府より不謹慎な言動が極まりないと告発されて、忠清北道報恩郡に逃亡した[46]。6月23日逮捕されて、全官職を免官、京畿道桂陽区に収容された[47][48][49]。6月24日釈放されて、承政院左承旨、宗親府宗正卿に任官した[50]。6月27日義禁府に召喚されて、取調べを受けた結果、承政院左承旨を免官された[51]。6月28日承政院左承旨に任官した[52]。7月3日承政院左承旨の任期が終了した[53]。7月7日義禁府同知事に任官した[54]。8月1日五衛都摠府副摠管に任官した[55]。8月5日承政院左承旨に任官した[56]。8月8日承政院左承旨の任期終了。漢城府左尹に任官した[57]。1868年諱を「世輔」から「寅応」に改諱させられた。
官歴
編集元号 | 西暦 | 月日 | 内容 |
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咸豊元年 | 1851年 | 8月9日 | 慶平君に封爵。昭義大夫(従二品下階)の官位を受ける。 |
9月16日 | 中義大夫(従二品上階)の官位に昇格。 | ||
10月2日 | 五衛都摠府副摠管に任官。 | ||
10月24日 | 承憲大夫(正二品下階)の官位に昇格。 | ||
咸豊2年 | 1852年 | 1月10日 | 宗簿寺纂修監印校正官を兼官。 |
1月18日 | 崇憲大夫(正二品上階)の官位に昇格。 | ||
2月2日 | 嘉徳大夫(従一品下階)の官位に昇格。 | ||
3月10日 | 五衛都摠府都摠管に異動。 | ||
6月4日 | 宜徳大夫(従一品上階)の官位に昇格。 | ||
6月21日 | 五衛都摠府都摠管の任期終了。 | ||
咸豊3年 | 1853年 | 4月7日 | 興禄大夫(正一品下階)の官位に昇格。 |
12月22日 | 顕禄大夫(正一品上階)の官位に昇格。 | ||
咸豊4年 | 1854年 | 1月16日 | 五衛都摠府都摠管に任官。 |
3月4日 | 五衛都摠府都摠管の任期終了。 | ||
3月28日 | 五衛都摠府都摠管に任官。 | ||
咸豊5年 | 1855年 | 8月27日 | 宗戚執事を兼官。 |
咸豊6年 | 1856年 | 6月11日 | 五衛都摠府都摠管の任期終了。 |
咸豊7年 | 1857年 | 1月8日 | 五衛都摠府都摠管に任官。 |
1月19日 | 五衛都摠府都摠管を辞官。 | ||
8月15日 | 冬至使兼謝恩使正使に任官。 | ||
咸豊9年 | 1859年 | 4月25日 | 司饔院提調を兼官。 |
8月28日 | 五衛都摠府都摠管に任官。 | ||
11月14日 | 五衛都摠府都摠管の任期終了。 | ||
咸豊10年 | 1860年 | 12月13日 | 爵号を剥奪。全官職を免官。 |
外部リンク
編集脚注
編集- ^ 王族時は「晧」。
- ^ 大典会通では嘉善大夫。官位は従二品下階。
- ^ 『承政院日記』(1851年/咸豊1年) 旧暦7月12日
- ^ 『承政院日記』(1851年/咸豊1年) 旧暦7月13日
- ^ 大典会通では嘉義大夫。官位は従二品上階。
- ^ 『承政院日記』(1851年/咸豊1年) 旧暦8月21日
- ^ 『承政院日記』(1851年/咸豊1年) 旧暦9月8日
- ^ 大典会通では資憲大夫。官位は正二品下階。
- ^ 『承政院日記』(1851年/咸豊1年) 旧暦9月30日
- ^ 『承政院日記』(1851年/咸豊1年) 旧暦12月19日
- ^ 大典会通では正憲大夫。官位は正二品上階。
- ^ 『承政院日記』(1851年/咸豊1年) 旧暦12月27日
- ^ 大典会通では崇政大夫。官位は従一品下階。
- ^ 『承政院日記』(1852年/咸豊2年) 旧暦1月13日
- ^ 『承政院日記』(1852年/咸豊2年) 旧暦2月20日
- ^ 大典会通では崇禄大夫。官位は従一品上階。
- ^ 『承政院日記』(1852年/咸豊2年) 旧暦4月17日
- ^ 『日省録』(1852年/咸豊2年) 旧暦5月4日
- ^ 大典会通では輔国崇禄大夫。官位は正一品下階。
- ^ 『承政院日記』(1853年/咸豊3年) 旧暦2月29日
- ^ 鈴原府大夫人は哲宗の母で、本来この酌献礼は哲宗が主宰者になるが、勅使として李寅応を派遣した。
- ^ 『承政院日記』(1853年/咸豊3年) 旧暦7月10日
- ^ 大典会通では上輔国崇禄大夫。官位は正一品上階。
- ^ 『承政院日記』(1853年/咸豊3年) 旧暦11月22日
- ^ 『承政院日記』(1853年/咸豊3年) 旧暦12月18日
- ^ 『日省録』(1853年/咸豊3年) 旧暦12月18日
- ^ 『日省録』(1854年/咸豊4年) 旧暦2月6日
- ^ 『日省録』(1854年/咸豊4年) 旧暦2月30日
- ^ 『日省録』(1855年/咸豊5年) 旧暦7月15日
- ^ 『日省録』(1856年/咸豊6年) 旧暦5月9日
- ^ 『日省録』(1856年/咸豊6年) 旧暦12月13日
- ^ 『日省録』(1856年/咸豊6年) 旧暦12月24日
- ^ 『日省録』(1857年/咸豊7年) 旧暦6月26日
- ^ 『日省録』(1857年/咸豊7年) 旧暦6月30日
- ^ 『日省録』(1859年/咸豊9年) 旧暦3月23日
- ^ 『日省録』(1859年/咸豊9年) 旧暦8月1日
- ^ 『日省録』(1859年/咸豊9年) 旧暦10月20日
- ^ 『日省録』(1860年/咸豊10年) 旧暦11月2日
- ^ 『日省録』(1860年/咸豊10年) 旧暦11月3日
- ^ 『日省録』(1860年/咸豊10年) 旧暦11月6日
- ^ 『承政院日記』(1864年/同治3年) 旧暦1月13日
- ^ 『承政院日記』(1864年/同治3年) 旧暦2月21日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦1月1日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦5月4日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦5月7日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦5月21日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦5月29日
- ^ 『日省録』(1865年/同治4年) 旧暦閏5月1日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦閏5月1日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦閏5月2日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦閏5月5日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦閏5月6日
- ^ 『日省録』(1865年/同治4年) 旧暦閏5月11日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦閏5月15日
- ^ 『承政院日記』(1865年/同治4年) 旧暦6月10日
- ^ 『日省録』(1865年/同治4年) 旧暦6月14日
- ^ 『日省録』(1865年/同治4年) 旧暦6月17日