曾禰荒助
曽禰 荒助(そね あらすけ、旧字体:曾禰 荒󠄁助、嘉永2年1月28日(1849年2月20日) - 明治43年(1910年)9月13日[1])は、明治期の日本の官僚、政治家[2]。号は西湖[3]。明治時代の歴代内閣で閣僚職を歴任した。伊藤博文が暗殺される少し前に第2代韓国統監に就任し、韓国併合を進めた。
曾禰 荒󠄁助 | |
---|---|
| |
生年月日 |
1849年2月20日 (嘉永2年1月28日) |
出生地 |
日本、長門国 (現:山口県) |
没年月日 | 1910年9月13日(61歳没) |
称号 |
正二位 勲一等旭日桐花大綬章 子爵 |
配偶者 | 曾禰テルコ |
子女 | 芳川寛治(次男) |
第2代 韓国統監 | |
在任期間 | 1909年6月14日 - 1910年5月30日 |
初代 韓国副統監 | |
在任期間 | 1907年9月21日 - 1909年6月14日 |
第10代 大蔵大臣 | |
内閣 | 第1次桂内閣 |
在任期間 | 1901年6月2日 - 1906年1月7日 |
第13代 逓信大臣(兼任) | |
内閣 | 第1次桂内閣 |
在任期間 | 1903年7月17日 - 1903年9月22日 |
第16代 農商務大臣 | |
内閣 | 第2次山縣内閣 |
在任期間 | 1898年11月8日 - 1900年10月19日 |
その他の職歴 | |
第7代 司法大臣 (1898年1月12日 - 1898年6月30日) | |
貴族院議員 (1900年9月26日 - 1906年5月17日) | |
衆議院議員 (1892年5月6日 - 1893年12月30日) | |
枢密顧問官 (1906年 - 1910年) |
略歴
編集長門国(現山口県)萩藩の家老の宍戸氏の出身で、宍戸潤平の三男として生まれた。通称を寛三郎。曾禰詳蔵高尚の養子となり、曾禰姓を名乗るようになった。
17歳ながら家老格の家柄のおかげで長州藩兵の小隊長として戊辰戦争初期に従軍した。明治維新後、明治元年(1868年)、明治政府に出仕を命じられ、降兵取締に任じられた。明治5年(1872年)、フランス留学を命じられて5年後に帰国。明治12年(1879年)、陸軍省勤務。翌年から陸軍士官学校勤務を兼ねた。
明治14年(1881年)に太政官書記官に転じ、明治19年(1886年)4月に内閣記録局長、明治23年(1890年)に初代衆議院書記官長に任命された。この任を2期務めた後、第1次松方内閣の解散に伴って衆議院選挙に出て、山口4区から初当選を果たした。会派は品川弥二郎が主宰した国民協会に属したが、明治26年(1893年)に駐フランス全権公使に任じられた。しかし日清戦争の後には駐ドイツ全権公使青木周蔵と共に三国干渉では列強にやり込められている。
明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣が発足すると司法大臣に就任。以後、農商務大臣、大蔵大臣、外務大臣等を歴任。特に日露戦争時は、外債の不足に苦慮したが、大蔵大臣として大任を果たした。
明治40年(1907年)に初代統監府副統監として伊藤博文を補佐し、伊藤の退任後に韓国統監となった。曾禰は韓国併合反対論者で、併合論者の桂太郎首相に対して、「桂はよく話して聞かせれば判る」と息巻いていた。しかし結局、山縣・桂に押し切られる形で「適当ノ時機」に韓国併合を断行する閣議決定(7月6日)に同意した[4]。伊藤暗殺事件の直後から韓国併合を進めて、明治43年(1910年)、胃癌[5]により同職を辞したが、併合の完成を病床で聞き薨去。享年62。墓所は青山霊園(1ロ12-28)。
人物
編集外交・内政・財政さらには韓国問題まで幅広くこなした万能政治家であったものの、二流政客と称され、長州閥の実力者に肩を並べるには至らなかった。このことから「器用貧乏」ともあだ名された[6]。
フランス公使時代は公使館の一室に籠って、交際も何もせず、朝から晩まで花牌を引いてばかりいたため「花牌公使」とあだ名された[7]。
黒岩涙香によると、1898年時点で十代の愛人を2人抱えていた。一人は17歳の田中いねで小間使い兼妾として雇い、在官中はいねとともに官邸に宿泊し、日曜ごとに赤坂台町の自邸にいねを伴って帰るのが常で、その傍ら、三十軒堀の花三升の花香19歳のもとにも足しげく通っていた[8]。1909年ころ、朝鮮の慶州から石窟庵五重小塔を持ち去った。
江ノ島の碑
編集1911年、江ノ島の龍野ヶ岡(最近は恋人の丘と呼ばれる)に、時の首相桂太郎篆額による「西湖曾禰君碑」[9]という巨大な顕彰碑が建てられた。これは、曾禰の別荘が片瀬にあったためである。撰文は三島毅、書は高島九峰[10]。なお、この碑には、1923年9月1日の関東大震災で破損し、翌年11月に修復したと刻まれている。
年表
編集- 1889年(明治22年)7月23日 - 兼任 内閣記録局長、叙 奏任官一等[11]
- 1890年初代の衆議院書記官長となる。
- 1892年 第2回衆議院議員総選挙に当選し、同年衆議院副議長をつとめる。
- 1893年駐仏公使に転じる。
- 第3次伊藤内閣司法相、第2次山県内閣農商務相、第1次桂内閣蔵相等を歴任。
- 1900年9月26日 - 貴族院勅選議員に勅任[12]。
- 1902年男爵に叙爵。
- 1906年枢密顧問官に就任。
- 5月17日 - 貴族院勅選議員を辞職[13]。
- 1907年9月21日 - 子爵に陞爵、副統監となる[14]。
- 1909年6月14日 - 韓国統監に就任する[15]。
- 1910年9月13日薨去。
栄典
編集- 位階
- 1881年(明治14年)
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[16][17]
- 1890年(明治23年)6月11日 - 従四位[16][18]
- 1897年(明治30年)2月15日 - 正四位[16][19]
- 1898年(明治31年)2月14日 - 正三位[16][20]
- 1904年(明治37年)4月20日 - 従二位[16][21]
- 1910年(明治43年)8月29日 - 正二位[22]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)12月26日- 勲五等瑞宝章[16][25]
- 1891年(明治24年)3月18日 - 勲四等旭日小綬章[16][26]
- 1894年(明治27年)6月19日 - 勲三等瑞宝章[16][27]
- 1898年(明治31年)4月6日 - 勲二等旭日重光章[16][28]
- 1901年(明治34年)10月21日 - 金杯一組[16]
- 1902年(明治35年)
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日大綬章[16][31]・明治三十七八年従軍記章[32]。
- 1907年(明治40年)9月21日 - 子爵[16][33]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[34]
- 1910年(明治43年)8月29日 - 旭日桐花大綬章[22]
- 外国勲章佩用允許
脚注・出典
編集- ^ 曽禰荒助 | 近代日本人の肖像
- ^ 朝日日本歴史人物事典「曾禰荒助」
- ^ 西湖曾禰荒助、行書七絶
- ^ 小林道彦『桂太郎 予が生命は政治である』 p240-241
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
- ^ 曾禰 荒助
- ^ 花牌公使『明治六十大臣 : 逸事奇談』長田偶得 (大学館, 1901)
- ^ 『弊風一斑 蓄妾の実例 』黒岩涙香、現代教養文庫、1992年、p7
- ^ 栄典のタブに画像
- ^ 碑像マップ
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第5174号、明治33年9月28日。
- ^ 『官報』第6863号、明治39年5月18日。
- ^ 『官報』第7272号、明治40年9月23日。
- ^ 『官報』第7790号「叙任及辞令」1909年6月15日。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「曾禰荒助」 アジア歴史資料センター Ref.A06051169700
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ^ 『官報』第4084号「叙任及辞令」1897年2月16日。
- ^ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
- ^ 『官報』第6239号「叙任及辞令」1904年4月21日。
- ^ a b 『官報』第8158号「叙任及辞令」1910年8月30日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
- ^ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
- ^ 『官報』第2313号「叙任及辞令」1891年3月19日。
- ^ 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
- ^ 『官報』第4427号「叙任及辞令」1898年4月7日。
- ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第7415号「叙任及辞令」1908年3月18日。
- ^ a b 『官報』第6239号「叙任及辞令」1904年4月21日。
- ^ 『官報』第8049号「叙任及辞令」1910年4月25日。
参考文献
編集- 西野喜与作「国立国会図書館デジタルコレクション 曾禰荒助の巻」『歴代蔵相伝』東洋経済新報社出版部、1930年 。
関連項目
編集外部リンク
編集- 曾禰荒助 | 近代日本人の肖像
- 国立国会図書館 憲政資料室 曽祢荒助関係文書(MF:財務省財務総合政策研究所蔵)
- 曾禰荒助の卷『歴代蔵相伝』西野喜与作(東洋経済新報社出版部, 1930)
公職 | ||
---|---|---|
先代 (新設) |
副統監 初代:1907年 - 1909年 |
次代 山県伊三郎 |
先代 (新設) |
馬政長官 1906年 - 1909年 |
次代 寺内正毅 |
先代 (新設) |
衆議院書記官長 1890年 - 1892年 |
次代 水野遵 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
子爵 曾禰(荒助)家初代 1907年 - 1910年 |
次代 曾禰安輔 |
先代 叙爵 |
男爵 曾禰(荒助)家初代 1902年 - 1907年 |
次代 陞爵 |