斉 (劉予)
斉(せい)は、靖康の変後に金朝が中原を治めるために設けた漢人の傀儡政権。劉予を皇帝とする。張邦昌を帝とする楚が崩壊した後に建国された。
概略
編集女真(ジュシェン)人によって建てられた金王朝は、建炎3年(1129年)3月、劉予を東平府(山東省)へ移し、京東西淮南等路安撫使に任じて大名府・開州・徳州・濮州・浜州・博州・棣州・滄州などを治めさせた。宋の建炎4年(1130年)7月、宗族(太祖阿骨打(アクダ)の従兄撒改(サガイ)の長子)の粘没喝(ネメガ、完顔宗翰)の画策により、劉予を皇帝として傀儡国家を建てることとし、国号を「斉」、都を大名府とした[1]。劉予は9月9日に皇帝として即位したが、年号は、金朝の正朔を奉じ、「天会8年」とした。金としては、黄河以北の河北・山西を占領支配地とし、河南・山東以南を衛星国として漢人によって漢人を支配させ、次第に南方を蚕食していく心づもりであった[1]。
劉予は、百官を定めた後に東平府に移り、生母の翟氏を皇太后、側室の銭氏を皇后となした[注釈 1]。11月には阜昌元年と改元し、子の劉麟を尚書左丞諸路兵馬大総管とした。阜昌3年(1132年)にはさらに陝西も封土に加えられ、都を河南の汴京(開封)に移した[1]。尚書省や六部を設け、徴兵を行い、十分の一税を施行、法律を定め銭の鋳造や交鈔の発行、各地に横行する匪賊の類いを丸ごと抱えこむ、科挙以外の官吏登用ルートを創設するなど意欲的な政策を行ったため、南宋から斉に赴き、仕えたという例も出た。
金の元帥府使蕭慶が汴京に赴き、劉予と南宋攻略の相談をした際には、劉予は宋軍の内情を詳らかに報告したり、宋軍の将軍の内応を図るなどの工作を行うが、劉予・劉麟父子は実戦面では全く活躍できず、かえって人心を失った。斉国の軍は、常に岳飛らの義勇軍に打ち負かされて退却し、次第に宋金戦争は膠着状態に陥ったため、金は劉予の存在価値を低くみるようになっていった[2]。そこへ阜昌8年(1137年)に劉予の後ろ盾であった粘没喝が失脚したことで、斉不要論が台頭した。劉予の斉は、金にとってかえって重荷になってきたのである[2]。同年、斉はわずか8年で廃止された。こののち、華北は金朝により直接支配されることとなった。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c 宮崎(2015)pp.86-89
- ^ a b 宮崎(2015)pp.89-93
参考文献
編集- 宮崎市定『中国史(下)』岩波書店〈岩波文庫〉、2015年6月。ISBN 978-4-00-331334-3。