棣州
概要
編集586年(開皇6年)、隋により棣州が立てられた。棣州は陽信・楽陵・饒安・無棣・高城・浮陽の6県を管轄した。596年(開皇16年)、鬲津・滳河・厭次・蒲台・浮水の5県が置かれて、棣州の管轄県に加えられた。598年(開皇18年)、高城県は塩山県と改められ、浮陽県は清池県と改められた。606年(大業2年)、棣州は滄州と改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、滄州は渤海郡と改称された[1]。
621年(武徳4年)、唐により隋の渤海郡陽信県の地に棣州が置かれた。棣州は陽信・楽陵・厭次・滳河の4県を管轄した。623年(武徳6年)、棣州は廃止されて滄州に編入された。643年(貞観17年)、厭次県に再び棣州が置かれた。棣州は厭次・滳河・陽信の3県を管轄した。742年(天宝元年)、棣州は楽安郡と改称された。760年(上元元年)、楽安郡は棣州の称にもどされた。棣州は河南道に属し、厭次・滳河・陽信・蒲台・渤海の5県を管轄した[2]。
956年(顕徳3年)、後周により棣州の渤海・蒲台の2県が分離されて、浜州に転属した[3]。
北宋のとき、棣州は河北東路に属し、厭次・商河・陽信の3県を管轄した[4]。
金のとき、棣州は山東東路に属し、厭次・商河・陽信の3県と清河・帰化・達多・永利・脂角・欽風・西界・帰仁・官口の9鎮を管轄した[5]。
元のとき、棣州は済南路に属し、厭次・商河・陽信・東無棣の4県を管轄した[6]。
明の洪武初年、棣州と厭次県が廃止された。1373年(洪武6年)、再び州が置かれて、楽安州と改められた。1426年(宣徳元年)、楽安州は武定州と改称された[7]。