持地六三郎
日本の官僚
持地 六三郎(もちじ ろくさぶろう、1867年9月15日(慶応3年8月18日)[1] - 1923年(大正12年)8月16日[2])は明治時代から大正時代にかけての日本の統治地域官僚。
もちじ ろくさぶろう 持地 六三郎 | |
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生誕 |
1867年9月15日(慶応3年8月18日) 陸奥国(現・福島県) |
死没 |
1923年8月16日(55歳没) 千葉県安房郡北条町(現・館山市) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 帝国大学法科大学 |
職業 | 官吏 |
肩書き | 従三位勲二等 |
経歴
編集福島県出身。1893年(明治26年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵属、内務属を経て、1894年(明治27年)に山口高等中学校教授に任じられた。1897年(明治30年)、石川県参事官に転じ、同県書記官、文部省視学官、同省参事官、台南県書記官、台湾総督府参事官を歴任。1909年(明治42年)から台湾総督府通信局長を務めた。その後、朝鮮総督府に転じ、土木局長を務めた後、1917年(大正6年)から逓信局長官[3]、逓信局長を務めた。退官後、1921年(大正10年)12月28日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]。
親族
編集- 高橋親吉 - 長女の夫。高雄州知事、台湾総督府殖産局長、台北州知事。
著作
編集- 著書
- 『経済通論』 冨山房、1896年7月
- 『経済通論』 冨山房、1897年5月再版
- 『支那問題と国民の覚悟』 広文堂書店、1901年11月
- 『経済一夕話』 冨山房、1902年4月
- 『経済教科書』 冨山房、1902年10月
- 『中等教育 法制教科書』 岩田宙造共著、大日本図書、1902年6月
- 『中等教育 経済教科書』 大日本図書、1902年6月
- 『法制及経済 附研究法』 同文館〈教育研究叢書〉、1903年10月
- 『台湾殖民政策』 冨山房、1912年7月
- 阿部洋ほか編 『日本植民地教育政策史料集成 台湾篇第20巻』 龍溪書舎、2009年7月 - 抄録
- 『日本植民地経済論』 改造社、1926年6月
- 訳書
脚注
編集- ^ 人事興信録 第4版 1915.
- ^ 『官報』第3318号、大正12年8月21日。
- ^ 『官報』第1454号、大正6年6月7日。
- ^ 『官報』第2824号、大正10年12月29日。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
関連文献
編集- 金子文夫 「持地六三郎の生涯と著作」(『台湾近現代史研究』第2号、台湾近現代史研究会、1979年8月)
- 駒込武著 『植民地帝国日本の文化統合』 岩波書店、1996年3月、ISBN 4000029592
- 「総督府官僚の台湾統治構想と統計調査 : 持地六三郎の台湾認識」(佐藤正広著 『帝国日本と統計調査 : 統治初期台湾の専門家集団』 岩波書店、2012年3月、ISBN 9784000099202)
公職 | ||
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先代 逓信局長官 池田十三郎 |
朝鮮総督府逓信局長 1919年 - 1920年 逓信局長官 1917年 - 1919年 |
次代 竹内友治郎 |
先代 (新設) |
朝鮮総督府土木局長 1912年 - 1917年 |
次代 宇佐美勝夫 |
先代 鹿子木小五郎 |
台湾総督府通信局長 1909年 - 1910年 |
次代 局長事務取扱 鈴木三郎 |
先代 校長 田中敬一 |
台湾総督府国語学校長心得 1906年 - 1907年 |
次代 校長 本荘太一郎 |
先代 局長 中村是公 |
台湾総督府総務局長心得 1906年 - 1907年 |
次代 局長 大島久満次 |