釈尊寺
釈尊寺(しゃくそんじ)は、長野県小諸市にある天台宗の寺院。山号は布引山。布引観音とも呼ばれる。信濃三十三観音霊場の第29番札所。「牛に引かれて善光寺参り[1][2]」伝説発祥の地。本尊は聖観世音菩薩。縁日は新暦5月8日。
釈尊寺 | |
---|---|
観音堂(本堂前より) | |
所在地 | 長野県小諸市大久保2250 |
位置 | 北緯36度19分51.9秒 東経138度23分10.7秒 / 北緯36.331083度 東経138.386306度座標: 北緯36度19分51.9秒 東経138度23分10.7秒 / 北緯36.331083度 東経138.386306度 |
山号 | 布引山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 聖観世音菩薩 |
創建年 | 伝・神亀元年(724年) |
開基 | 伝・行基 |
正式名 | 布引山 釈尊寺 |
札所等 | 信濃三十三観音霊場29番 |
文化財 |
観音堂宮殿(重要文化財) 白山社社殿(長野県宝) |
法人番号 | 6100005003759 |
沿革
編集寺伝によれば、奈良時代の神亀元年(724年)に行基が開き、聖徳太子が作ったとされる聖観音を祀ったと伝えられている。
戦国時代の天文17年(1548年)武田信玄が東信地方に進攻し楽巌寺入道雅方・布下仁兵衛雅朝を攻略した際に焼亡した。この後、武田信玄は釈尊寺を包み込む形で築かれた布引城郭群[注 1]を改修している[4]。この時の城の改修とは、焼亡した寺院の残骸を処理したあとに、崖端部の位置に小規模な土塁と空堀を築き、それ以外の危険な箇所には木柵をめぐらせる簡単なものだったと推測される[5]。永禄元年(1558年)に望月城主・望月左衛門佐信雅によって再建された。しかし、江戸時代中期の享保8年(1723年)に再度、野火のため焼亡した。
文化財
編集重要文化財
編集- 観音堂宮殿(かんのんどうくうでん)
- 棟札により鎌倉時代の正嘉2年(1258年)の造立と判明した建築物。岩屋の中に祀られていたことにより戦火を免れて今日に至る。観音堂内にある仏殿形の厨子で、地方的な未熟さがなく、美術史上重要であるとして、昭和24年(1949年)国の重要文化財に指定。入母屋造、板葺であって、梅鉢懸魚や軒下の蟇股(かえるまた)、地長押の下の格狭間(ごうざま)など、細部の形式に鎌倉時代建築の特色を示す。特に鎌倉時代の梅鉢懸魚は、現代に残る唯一の遺物である[6][7]。
- 白山社社殿 (はくさんしゃしゃでん)
参道
編集千曲川の駐車場から本堂、観音堂までの参道は「信州の耶馬溪」といわれる布引渓谷沿いに位置している。階段が整備されているものの険しい道のりとなっており、湧水のためぬかるんでいる箇所もある。所要時間は20分程度。信徒らによって寄進された地蔵がいくつもみられ、傍らには石が積み上げられている。途中、滝[注 2]や奇岩[注 3]などの見所が多くあり、中でも善光寺穴といわれる洞穴は遠く善光寺へつながっているとされ、善光寺火災の折には煙が出て来たとの伝承[注 4]がある。
交通アクセス
編集布引観音駐車場まで
布引観音駐車場から長野県道40号諏訪白樺湖小諸線を小諸市街地方面におよそ300m進んだ箇所では、しばしば土砂崩れが発生し通行不能となるので、最新の道路状況に留意する必要がある。
布引観音駐車場から本堂まで
- 布引渓谷沿いのやや足場の悪い参道を15分から20分
林道布引線を利用するルートも存在するが、林道はかなり狭隘で、勾配がきつい箇所が存在するため、檀家や地元住民以外の利用は少ない。
脚注
編集注釈
編集- ^ 布引城郭群は楽巌寺城と布引南・北城の独立した三遺構が一体となって内側の谷内を包み込む形で構築されており、この谷内には釈尊寺の伽藍が建立されている[3]。
- ^ 布引二段滝、不動滝。水量は少ないが、冬季には氷瀑となる。
- ^ 馬岩、牛岩。馬岩は平安時代、当寺にほど近い御牧ヶ原台地に「望月牧」と呼ばれる勅旨牧が置かれていたことに、牛岩は伝説「牛に引かれて善光寺参り」に、それぞれゆかりがあるという。
- ^ 参道中の案内板より。
出典
編集参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 小諸市観光協会・布引観音
- 布引観音 釈尊寺 - ウェイバックマシン(2001年4月25日アーカイブ分)