楽巌寺雅方
楽巌寺 雅方(らくがんじ まさかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。望月氏、後に武田氏の家臣。信濃国楽巌寺城主[1]。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 没年不詳 |
別名 | 宗栄、通称:右馬助 |
主君 | 望月氏→村上義清→武田信玄 |
氏族 | 楽巌寺氏 |
略歴
編集信濃国佐久郡の国人・望月氏の被官[2]。雅方は楽巌寺の僧侶だったという[1]。
『甲陽軍鑑』によれば、天文17年(1548年)2月14日に甲斐武田氏と信濃小県郡の村上義清との間で行われた上田原の戦いで村上方の先鋒を務めたという[2]。『甲陽軍鑑』によれば、天文23年(1554年)に越後国・長尾氏(上杉氏)への内通嫌疑により飯富昌景(山県昌景)により成敗されたとされるが、これは誤りであることが指摘される[2]。その後、武田氏に従属し、弘治4年(1558年)3月7日に望月信雅が釈尊寺(長野県小諸市)を再興した際の棟札に「宗栄楽厳寺」の名が見られる[2]。
永禄10年(1567年)8月7日には武田氏に対する忠節を誓う下之郷起請文を生島足島神社に奉納し、雅方は譜代家老・金丸昌続(土屋昌続)に起請文を提出している[2]。