岩室城 (紀伊国)
岩室城(いわむろじょう)は、現在の和歌山県有田市宮原町東、有田郡有田川町田口(旧・紀伊国有田郡)にあった日本の城(山城)[1]。岩村城、岩室山城ともいう[1][3]。
岩室城 (和歌山県) | |
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別名 | 岩村城、岩室山城 |
城郭構造 | 山城 |
主な城主 | 畠山氏 |
廃城年 | 天正13年(1585年)? |
遺構 | 曲輪、堀切、土塁、石積み[1] |
指定文化財 | 有田市指定文化財(岩室城址)[2] |
位置 | 北緯34度4分56秒 東経135度11分24秒 / 北緯34.08222度 東経135.19000度座標: 北緯34度4分56秒 東経135度11分24秒 / 北緯34.08222度 東経135.19000度 |
地図 |
概要
編集岩室山の山頂に築かれた城で、標高276m、比高250mに位置する[1]。岩室城のある宮原付近は熊野街道と高野街道が交わる交通の要衝に当たり、中世前期には湯浅党の宮原氏が本拠としていた[1]。
屋島の戦いの後、湯浅宗重のもとに身を寄せた平忠房が「岩村城」に籠城して戦ったとされるが[3](『平家物語』長門本[1][4])、この岩村城が岩室城に当たると考えられる[1]。
岩室城はこの後、有田郡に勢力を伸ばした守護・畠山氏の支配下に置かれた[1]。その時期に関連して、正長年間(1428 - 1429年)に畠山持国が岩室城を築いたという説(『紀伊続風土記』)や、正長年間に宮原を領した持国が文安2年(1445年)に築いたという説(『花営三代記』)、畠山尚順の三男・政氏が築城したという説(『寛永記』)などがある[5]。
また、岩室城は畠山氏の拠点城郭である大野城(海南市)や広城(広川町)、鳥屋城(有田川町)と比べて規模の小さな支城であり[1]、広城や鳥屋城と連携して、熊野街道を押さえるのに用いられたものとみられる[6]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i 新谷和之 著「岩室城」、和歌山城郭調査研究会 編『戦国和歌山の群雄と城館』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ12〉、2019年、36-37頁。ISBN 978-4-86403-311-4。
- ^ “有田市の文化財”. 有田市公式ウェブサイト. 有田市役所 (2022年8月29日). 2023年1月24日閲覧。
- ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』角川書店、1985年、163-164頁。ISBN 4-04-001300-X。
- ^ 有田市誌編集委員会 1974, p. 1406.
- ^ 有田市誌編集委員会 1974, pp. 366–367.
- ^ 新谷和之 著「紀伊国における守護拠点の形成と展開」、小谷利明; 弓倉弘年 編『南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆』戎光祥出版〈戎光祥中世史論集 第5巻〉、2017年、27頁。ISBN 978-4-86403-267-4。
- ^ 『寛政重脩諸家譜第一輯』國民圖書、1922年、561-562頁。全国書誌番号:21329090 。