野々村潔
日本の俳優・映画プロデューサー(1914−2003)
(岩下清から転送)
野々村 潔(ののむら きよし、本名:岩下 清(いわした きよし)、1914年9月23日[1] - 2003年1月22日)は日本の俳優、映画プロデューサー。
ののむら きよし 野々村 潔 | |
---|---|
本名 | 岩下 清(いわした きよし) |
生年月日 | 1914年9月23日 |
没年月日 | 2003年1月22日(88歳没) |
出生地 | 日本・東京府 |
死没地 | 日本・東京都大田区 |
職業 | 俳優 |
配偶者 | 山岸美代子 |
著名な家族 |
義理の妹:河原崎しづ江 実子:岩下志麻 |
主な作品 | |
夕餉前 |
人物・経歴
編集1914年9月23日、東京府出身。1937年、新協劇団に入団[1]。1939年、新協劇団と東宝映画との提携映画『初恋』(村山知義脚本・監督、ユージン・オニール原作)に出演。1940年4月13日と4月14日にNHK放送技術研究所のテレビ実験放送として制作された日本初のテレビドラマ『夕餉前』に新協劇団員の原泉、関志保子とともに生出演。
戦後は、1946年の新協劇団の再建に参加[1]。『真空地帯』『唐人お吉』といった独立プロの映画に出演。1951年、中央芸術劇場を薄田研二らとともに創設。新協劇団との合同による東京芸術座の結成に参加[2][1]。1962年の時点では東京俳優生活協同組合に所属[1]。『見上げてごらん夜の星を』『馬鹿まるだし』『ウナ・セラ・ディ東京』といった娯楽的な作品にも出演。
テレビには、戦後も関わり、多数のテレビドラマに出演した。さらに、1970年代以降、映画の製作に本名名義で関わり、1983年には木下恵介監督の『この子を残して』にも出演した。
出演
編集映画
編集- 初恋(1939年)
- 真空地帯(1952年)
- 永遠の人(1961年)
- 唐人お吉(1954年)
- 旗本退屈男 どくろ屋敷(1954年)
- 俺たちに太陽はない(1960年)
- かあさん長生きしてね(1962年)
- 二人で歩いた幾春秋(1962年)
- 今年の恋(1962年)
- 霧子の運命(1962年)
- 死闘の伝説(1963年)
- 見上げてごらん夜の星を(1963年)
- 馬鹿まるだし(1964年)
- 鮫(1964年)
- この声なき叫び(1965年)
- 母の歳月(1965年)
- ウナ・セラ・ディ東京(1965年)
- 紀ノ川(1966年)
- あかね雲(1967年)
- スクラップ集団(1968年)
- 永訣(1969年)
- 波止場女のブルース(1970年)
- トラ・トラ・トラ!(1970年)
- この子を残して(1983年)
テレビ
編集- 夕餉前(1940年、NHK)日本初のテレビドラマ(実験放送)
- ダイヤル110番(1955年、NTV)
- 怪人二十面相(1958年)
- 仇討選手(1959年、CX)
- 松本清張シリーズ・黒い断層 第19-24回「蒼い描点」(1960年、KRT)
- 松本清張シリーズ・黒の組曲(NHK)
- 新選組血風録 第7話「菊一文字」(1965年、NET) - 日野助次郎
- 大河ドラマ(NHK)
- 三匹の侍(CX)
- 第4シリーズ 第24話「一匹狼」(1967年) - 喜助
- 第5シリーズ 第12話「女がやって来た」(1967年) - 柏木弥五衛門
- 第6シリーズ 第1話「荒野に在り」(1968年) - 弥六
- 特別機動捜査隊 第347話「ゆきずりの女」(1968年、NET)
- ポーラテレビ小説 三人の母(1968年 - 1969年、TBS) - 北山の伯父
- 木下恵介アワー
プロデュースした映画作品
編集- 沈黙 SILENCE(1971年)※カンヌ国際映画祭コンペティション出品
- 卑弥呼(1974年)※カンヌ国際映画祭コンペティション出品
- はなれ瞽女おりん(1977年)※アジア映画祭監督賞
- 鑓の権三(1986年、原作:近松門左衛門)※ベルリン国際映画祭銀熊賞
- 舞姫(1989年)
- スパイ・ゾルゲ(2003年)
※すべて篠田正浩監督作品
著書
編集- 『新劇運動回想』(芸団協出版部、2001年7月)