山田新一郎
日本の教育者、内務官僚、神職
山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月2日[1])は、日本の教育者、内務官僚、神職。政友会系官選鳥取県知事。
経歴
編集筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年、杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年、第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業[1]。同月24日、法制局試補となる[2]。
1893年、鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年、静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官、青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任[1]。
1906年7月、鳥取県知事に就任。産業振興に務め、寺田祐之前知事の計画を引き継ぎ境港の浚渫を実施する他、米子港などの浚渫も推進。その他、耕地整理、果樹の試験栽培などを進めた。また、1906年11月、通常県会の冒頭に予算編成方針の説明を実施し、その後の慣例となった。1908年6月、知事を休職[3]。同年7月、台湾総督府民政部総務局長に就任[4]。同府参事官に転じ、1910年に休職[1]。
1912年、皇典講究所幹事長となり1917年まで在任[1]。同年8月11日、北野神社(北野天満宮)宮司に任じられた[5]。1922年から1924年まで稲荷神社(伏見稲荷大社)宮司を兼任。1934年、賀茂別雷神社(上賀茂神社)宮司に転じ1936年に退任した。その他、大日本武徳会常議員を1918年から1942年まで務めた[1]。
栄典
編集著作
編集- 『神社祭祀之意義』全国神職会、1915年。
- 『原古處先生小史』1916年。
- 『北野神社社号要誌』1921年。